口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

介護職の聖と俗。

(今年の1月に投稿したものを再編集したものです。そういえば、元介護士なのに、介護の仕事に関してあんまり書いてないですな。まぁ、そのうち書きます)

 

★★★

 

散歩とか、買い物とか、最低限の外出以外は、家でぬくぬくと過ごしています。日中は日当たりのいいところでブログを書いたり、本を読んだり、逞しく妄想し、よだれを垂らすなどしているのです。インドアですが、生命力にあふれた生活であります。

 

ラクです。体がラクラクで仕方ない。ラク過ぎて、かえって疲れてくる有様です。介護職をやっていた時は、基本的に肉体労働。立ちっぱなしです。立ち方に多様性がありました。中腰になったり、背を思い切り伸ばしたり、某海賊王希望者かと思うほど、ゴムのように毎日伸びたり縮んだりしていたのです。

 

私の体の基本動作というのはサービスのために提供するもので、その時は何気なくやっていたのです。というか、目の前に展開する仕事に奔走するしかありません。介護とは、おしりをふいてあげたり、体を洗ってあげたり、人間にとって非常に素朴で何気ない動作の手助けの連続です。それを本人ではなく他人がやるというところに、この仕事独特のむずかしさがある。

 

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職員の心の内部は、「聖」と「俗」でぶった切られています。あきらかに汚い情景でも(たとえば入浴介助中に排便があり、浴室が便まみれになった。私の足の裏にも便がたっぷり付着している)、そのお年寄りにとっては何日間も不快感を伴った末、ようやく解放された歓喜の情景であることは、そのお年寄りの半身と化している職員にとっては重々、承知しているのです。

 

だから、喜ばしいと捉えます。お年寄り本人とともに。多大な不快を感情の向こう岸に置き去りにしてです。「良かったですね、すっきりしましたね」と、自分自身に言うように、お年寄りに声をかける。そこには、なにか輝くものがあります。これが、大変な仕事でありながら、介護に職員を引き留める重い理由になることも、私には実感できます。

 

ただし、その処理は常に感染との危険性が付き物ですし、煩雑さもかなりのストレスとなるでしょう。ベテランの職員は各自、マニュアルを越えて、「職員技」のように汚染物の処理をスムーズに行います。ほれぼれするような、真剣な技術です。

 

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介護が誰でもできる仕事かどうかは、「誰でも」という言葉が投げやりでよくわからないので、よくわかりません(なんじゃそりゃ)。ただ。利用者のお世話だけではなく、洗濯物を干したり、お茶菓子を出したりと、日常的なお仕事も多いですから、できなくはないと思いますけれど。続くかどうかは、職員の心の中の「聖と俗」のバランスによるものでしょう。

 

「聖」しかない人は職員ではなく、ボランティア向きです。お世話をし過ぎて、失敗をすることが多い。「俗」しかない人は嫌われてしまいます。私は、お年寄りに自分の基本動作を奪われていると思いました。正直、「もったいない」と考えたのです。非常に俗な人間です。それで辞めました。

 

そうして、毎日妄想しながら暮らすようになってしまったのです。へたをすると、椅子に座ったまんま2時間くらいたっています。なにげに恐ろしいことです。このままだと現代病の餌食である。反省して、30分くらいは立ったまま過ごします。本でも片手に、珈琲でもちびちび啜りながら、窓の外を眺めています。