口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

精神年齢というのがよく分からない。

自分の精神年齢というのがよく分からないまま生きている。世間では「あの人は精神年齢が幼い」などと見下す時にも使われるけれど、精神というのは個々人にとって固有の存在だから、他人が規定できるものではない。精神という言葉を狡猾に使っているだけの、言葉遊びのようなものだろう。

 

そもそも、精神年齢は固定的なものではないと思う。私は30代の人間だけど、年齢相応の態度も持ち合わせているとは思う(かろうじて)。ただ、私の精神空間には、5歳児も中学生も大学生も、いまだに呑気に漂っているような感覚だ。

 

今まで成長して通り抜けてきた全ての年代の精神構造が、ふわふわと漂ったまま生き続けている。自分ひとりでいる時は、自分が何歳なのかなんて意識もしない。他人と交流する時に、ある特定の年齢の人格がふわふわ漂うのを止めて、めんどくさそうに対応するような感じで、今まで生きてきた。

 

そして、私が誰かと仲良くなれるかどうかというのは、自分の多様な精神年齢を、相手がどれだけ受け止めてくれるかにもよると思う。逆に相手が精神年齢を解放してくれて、多様な顔を見せてくれることで、私は相手を理解して仲良くなることができる。

 

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最近、むかし読んだ本を読み直していて、おっ、と思ったところがある。

自殺について 他四篇 (岩波文庫)

自殺について 他四篇 (岩波文庫)

 

 

有名な本だ。内容的にはそんなに自殺と関係なかったりする。この本に所収されている、『我々の真実の本質は死によって破壊されえないものであるという教説によせて』という、回りくどいタイトルの章の中で、人間の「主観的な面」と「客観的な面」において時間の把握方法が異なる、という事が書かれている。

 

簡単に言うと、「主観的な視点」において時間というのは不動を保っている。「客観的な視点」を持つことではじめて時間の経過を意識する、ということ。

 

例えば、無職の人間が家でのんびり過ごしているとする。その本人は時間の経過を意識せずに、現在というものがまるで無限にあるようなものだと考えていたりもする。でも他の人間からすると、無職になってどれくらい時間が経過したかを「何か月」とか「何年」という形式で把握している。だから本人よりも周りの人間が焦ったり、イライラし始めて、最終的には「働け!!」と、怒鳴り込むことになる。

 

そういうと、主観的な視点を持っているのはあんまり良くないような感じがしてしまうが、これがあるからこそ、その人の時間の感覚は、どれだけ長く生きようとバランスを保つことができる時間の端っこを歩くのではなく、常に時間の総量の中心点に立っている、ということ。

 

主観的な視点の場合、時間の総量というのはリアルタイムではない。茫漠とした、曖昧な時間量だ。すると、その人の中で時間というのは、過去に対しても未来に対しても常に同一な広がりをもつことになる。

 

ショウペンハウエルによれば、そういった時間感覚を持っていることで、過去を深く回想したり、または、どんなに年を取ったとしても、未来に思いを馳せることもでき、それによって多大な恩恵を受けることができるようだ。

 

いつでも我々は我々の意識とともに時間の中心に立っているのであって、決してその末端にあるのではない。そこからして、誰でもが無限な時間全体の不動の中心を自分自身のうちに担っているものであることが、推量せられえよう。(第6小節より抜粋)

 

精神年齢などと言って、自分をきっちりと、リアルタイムに即した実年齢に値するように追い詰めていくということは、常に断崖絶壁に立っているようなものだと思う。そういうシチュエーションが好きという人もいるかもしれない。私はどんなことがあっても主観的な視点を忘れないようにして、そこから豊かな恩恵を受け取りたいと考えている。