口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

もう知ってるから受け入れる。

 

事が終わった後で、酒屋さんに寄ったりします。目当ては日本酒。買って家で飲むこともあるし、ただ眺めて満足して帰ることもあります。日本酒は宣伝文句が多いですね(酒全般にいえるかもしれないけど)。ラベルに「○○品評会にてグランプリ受賞」とか「イタリアのワイン評論家からも好評」みたいなことが書いてある帯がくっ付いてるのが目立ちます。


たまにですが、日本酒を作っている杜氏が、海外で自分の蔵の日本酒を飲んでもらったら好評でした、みたいな内容のテレビ番組があったりしますよね。私は割とそういう番組は好きで観ます。ただ、だいたいいつものパターンですが、提供した側の視点がどうしても強くなる印象があります。


つまり、「自分たちの確かな技術と熱意が通じた」とか「日本の伝統が理解された」などと大きなテロップ付きで画面にでかでかと出て、そのまま一方的な結論になることが多い気がします。私からすると、受け入れる側にある種の「普遍性」が備えてあるからこそ、日本酒も受け入れられているんであり、それは考えてみれば凄いことだと思うんです。


たとえば日本酒を飲んだ事のない外国人のおばちゃんが、グラスに入った日本酒に口をつけると「うまーい」と目を輝かせる。それは、まったく未知だから美味しく感じるかというと、そうじゃなくて、実はどこかでその「うまさ」とは肉薄しているのかもしれませんよね。


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もしかしたら、程よく冷やした白ワインの口当たりに、似たものを感じるのかもしれません。同時に、なにか少し違和感がある。けれど、導入部分としては経験済みの部分が多く、そこからすんなりと異質なものも受け入れられる。基本的にそういう流れで、異国の食文化というのは理解されるのだと私は思います。


つまり、異国からやってきた未知の料理だとか文化であっても、ある程度、受け入れる側に経験済みの部分がある。この肉薄する部分というのは、どうして生まれたんでしょうね。もちろん歴史的な偶然でしょうけど、凄いと思いませんか。逆にこの肉薄する部分が無い場合、食だけでなく、そもそも異文化は受け入れられるものでしょうか。


極端な話ですけど、インド洋沖に浮かぶ北センチネル島に住んでいる食人族に日本酒を売り込もうとしても、たぶん無理でしょうね。でもフランスでは、日本酒が普通に市場でも受け入れられています。距離的には北センチネル島の方が日本に近いんですよ(笑)。だとしても、受け入れの前提となる導入部分に、似た文化とか風習がなければどうしようもないんでしょうね。


距離に関係なく地球上のある場所で、ある偶然性により生まれた文化が、それよりもはるか遠くで生まれた文化と、どこか兄弟のような様相を持ち、お互いにすでに何かを知っているような感じになっている。そして歴史上のどこかでクロスオーバーして出会い、ようやくお互いを正確に認め合っている。日本酒を受け入れる海外の人を見ているとそんなことを想像します。