口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

私の本気は私も知らない。

 

気と書いてマジと読む世代です。まあそれはいいとして、「本気」という言葉をどう感じますか。「本気でやれよ」などと、部活で先輩から厳しくされていた人も多いでしょう。私も人生を振り返ってみると、「ほしさん、本気でやってくださいよ」とか「それで本気かね君。ぷはは」とか、いろいろ言われた経験があります。


ただ、もうずっと前からそうなんですが、「本気」という言葉をあんまり信用していません。特に「本気でやれ」と他人が催促するのが不可解でしょうがない。仕事の帰りに学習塾の前を通りかかると、『あなたの本気を引き出します』などと、妙に偉そうなことが書かれていますが、私からすると本気とは、まず他人には分からないものだと思うのです。


せいぜい、「あの人最近頑張ってるよね」程度には映るのかもしれない。ただ、実際に本気かどうかというのは、非常に個人的な感覚じゃないかと。私が今、このブログを本気で書いているとしても、他の人から見るとどうでしょう。パソコンの前でなんか打ってるな~、ぐらいにしか思わないんじゃないでしょうか。


これが過酷な競技とかなら、それを見せただけでも相手が「あの人は本気」だと察してくれるかもしれない。でも、日常生活の上で本気を演出するようなパフォーマンスは、そこまで必要ないですよね。多くの作業は、あくまで淡々とやるだけです。実はその淡々とした行動にこそ、その人の本気が隠されているのかもしれない。でも、私も含めて人の心なんて読めない人ばかりだから、本気だと気づいてあげることが難しい。それが現実ではないですか。

 

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ちょっと話を変えて、自分を振り返ってみると、「もしかしたらあの時は本気だったかもしれない」と思い当たることもあります。数か月とか数年単位で課題に取り組んでいた時期を思い出すと、「あんなことよく続けてたな」と感じます。そんなに長期じゃなくても、たった一日とか、あの時のあの一瞬といったごく短い時間で、「あの時は本気出したかも」みたいな思い出も、ちらほらあります。


でも、思い出なので、ことごとく仮定形です。「だったかもしれない」としか表現できない。本気でやっている時は、自分が本気を出しているかどうかなんて定かではないでしょう。その体験も過ぎてしまえば、自分の感覚ですら、回想というフィクションの内でしか再現が難しくなってくる。すると、本気なんてどこに存在するのか、そもそも存在するのか、ちと怪しくなってきませんか。


いま私は、人と接しながら、その人の可能性を見出したり、アドバイスをする仕事をしているんですが、じっと見ていてもその人が本気かどうかはさっぱり分かりません。本気がいつ、どこへ注がれるのか、人によっても違うでしょう。その人に憑依でもしない限り、実際の所は分かりませんよね。


そう思うので、私は人に「本気でやれ」とは言いません。それぞれの人が勝手に、自由なタイミングで、自由に本気になればいい。そして後から、「あれ~、あん時、オレ本気だったかも」などと曖昧に思い出しつつ、美味しくお酒が飲めればそれでいいのではないでしょうか。