肉が食えなくなってきただの、大盛りがダメになってきただのと、前に色々書いてきました。
自分の食の好みが変化しつつありますが、まだまだ過渡期と言ったところです。飯と汁と漬物が少々あれば俺はいけるんじゃないか。それこそ、たそがれ清兵衛みたいな貧弱な粗食であっても……みたいなことをいっちょ前に想像するものの、目の前に唐揚げや豚カツが出されれば嬉々として完食するなど、いっこうに思考と行動が一致しないままです。とほほ。
ところが、こないだ体調不良でダウンし、食欲がまったくない感覚を久方ぶりに体験しました。食べ物に含まれている、ほんのちょっとの油脂の香りでもうえ~となるので、お粥と梅干し、あんまり酸っぱくないみかんぐらいしか喉を通りませんでした。だんだん回復してくると、湯豆腐とか、ほうれん草の胡麻和えが食べられるようになりました。
優しい味わいの食べ物が少しずつ食べられるようになってくるのは、ささやかながら、とても幸せでした。作ってくれた母親に感謝したくなり、何故か、窓越しに入ってくる弱い日の光にも感謝したくなりました。自分の体がラクになっていくに従って、あらゆることに感謝したくなってくるのです。で、最終的に、すき焼きをずるずると平らげ完全回復を遂げました。やはり肉は偉大でしたな。
でも、体がツラかった時に、お粥や梅干し、おかか、かまぼこといった、普段より格段に素朴なものを口にしていた時の感覚が、いまでも印象深いんです。なんだか、あんまり食事にガツガツしていない、静かで上品な風情の中で、実は生活していたような気もする。精進料理ってほどでもないですが、その時の体の要求で肉を断ち、舌触りのいいものを、やさしく摂取する生活。そんなのをたま~に意識的にやってみることで、病み上がりに感じたささやかな幸せの感覚を、また感じ取れるようになるのではないかと期待しているのです。
あと、これも最近よく考えることですが、そろそろ食後感を想定して、自分が食べる物を選べるようになりたいなぁと思っています。若い頃からの癖ですが、飢えた者が放つ衝動みたいな感覚で食べるものを決めがちです。ラーメン屋に行ったら有無を言わさず、こってり大盛り半ライス。食堂に行ったらメニューも見ずに、からあげ定食ライス大盛り、みたいな。それを食べた後のことなど考えないまま、ずっとやってきてしまいました。
ようやく消化能力が落ち始めて、体が分かりやすくシグナルを出し始めたわけなので、それを素直に受け取っていきたいところです。食事に過剰なファンタジーを持ち込まず、実直に体が求める分を摂取する。そして、食べた後の自分の事を考えてあげる。つまり、先回りした食事というのか、これを食べたいからという衝動は抑え、これを食べたらどうなるかを想定して、食べるものを選ぶと。そうなりたいものです。
案外これは自由が効く選択の仕方でもあると思うんです。もし足りなかったら、追加で頼めばいいんですから。特盛りを頼んだ以上逃げられない……完食以外は負けだみたいな、若いころ散々やっていた自分を追い込むような食事は、考えてみれば不自由極まりないですよね。これからは挑む食事じゃなく、受け入れる食事をしたい。そして、食べた後に体の軽さを自分に残したい。その修行をこれからやっていきます。たぶん。
豚の生姜焼き定食食べてる時なんか、有線放送でこのエモい曲が流れてくると、食欲と切なさが結託して、私を知らない高みへといざなう。