口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

やりたいことリストに棲む他人。

 

も杓子もやりたいことリスト。ブログ界においては、自分の「やりたいことリスト」をネタにしている方が多い印象があります。やりたいことリストが俄かに盛り上がる時期というのもありますよね。ちょうど年が明けた頃とか、四月あたりの新年度が始まる時期に、改めて自分を省察したい衝動が出てくるんでしょう。


かくいう私も今年の正月に、A4の紙に筆ペンでやりたいことリストを羅列してみました。書き初めみたいな感じでやったんですよ。が、書いているうちに、あまりのレベルの低さに愕然としてしまった。あれが食いてぇだの、このへんを脱毛してぇだの、どうでもいい欲望ばかり思い浮かぶのです。思い知りました。やりたいことリストにも修養が必要なのだと。普段そんなの書いたりしない人間が急にはじめたところで、大したことなど書けやしないのですよ。

 

きっと、何度も何度も書いては消し書いては消しを繰り返すことで取捨選択され、洗練されたリストになっていくのでしょう。思い付きだけではダメなのだ。一級の庭師が手入れをするように、邪魔な雑草を峻厳な心で抜き切った先に、理想の「やりたいことリスト」が見えてくるのかもしれない。ということは、やりたいことリストはある種、反自然的な側面があるのかもしれませんが。

 

そんなこんなで自分はたいしたリストなど作れませんが、他の方がリストを書いてる記事を見つけると、参考にさせてもらってます。で、そういうのを読んでいるときに、「そもそも、やりたいことリストを始めたのって誰なんだろうな」なんて、ふと頭によぎったりしますが、それを言ったら、人類が文字を取得した時点ですでにあったろうとは思うんです。象形文字なんかの起こりを見てると、文字ひとつにしても人間にとって何らかの重要なタスク、つまり「やりたいこと」を意味していたりするわけですし。

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それはいいとして、「やりたいことリスト作成」ってかなり定着してる習慣だとは思うんですが、読んでいてたまにちょっと怪しいなと感じることもあるんです。やりたいことリストを書く事により、本人にとって望ましい行動が明示されて分かりやすくなるんでしょうが、これって本当に書いている本人の希望なのだろうかと感じる時があるからです。

 

リストにはその人の希望が書かれているのだけど、そもそも、当人にそういった希望を抱かせているのが、明らかに自分以外の他人であることを察せられる場合があります。特に、ブログの目標PV数であるとか、記事の目標投稿数などをリストに掲げている人に多い印象があるのですが、自分のスケールではなく、明らかに他人のスケールの中に丸め込まれているのに、その状態を何故だか嬉々として享受している人たちが、よく目立つのです。

 

もちろん私も書いていくうちに、「これはそもそも、あの人から言われたことを引きずってるからかなぁ」みたいなものが出てきます。「やりたい」ことのはずが、実は「やらされてるリスト」なのかもしれないなんて思ったりして、書いてるうちに自信が無くなってきます、が、かえってそれはいいことかもしれませんね。ある種の解毒というのか、どれだけ自分の意識に他人の意向を土足で上らせているか、その理解にも繋がると思うからです。


「他の人から物差しを借りて、いったい何が悪いのよ」とか言われそうですが、借りるのは別にいいんです。物差し二、三本ぐらいなら。でも、十本も二十本も借りて、まるで自分の私物みたいに主張するのはどうなんだろうと。「あいつ、いつになったら自分で物差しを買うんだ」とか思われそうじゃないですか。ああ、物差しといえば、小学校4年生の時に友達のアベ・ヨシヒロ君から借りたコクヨの定規をまだ返していない。いつか返さなあかんと思ってますが、使い勝手が良くていまだに使ってます。あと三十八年ぐらい借りてていいですか。ありがとうございます。

 


矢野顕子 - ラーメンたべたい

結局のところ、やりたいことの真打ちといったらこれなんですよ。