口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

句読点の師。

 

業柄、記録を文章として残すのが私の日課です。誰が何をして、それに対して職員がどう対応し、どういう結果になったか。一連の流れを詳細にパソコン上のフォーマットに入力していくわけです。また、書いた文章を自分でもチェックするし、上司にチェックされたりもします。職場での勤続年数が長くなれば、私がチェックする立場になったりもする。


それで、もちろん自分の文章もそうですけど、特に他の人の文章を読んでいると常々、悩ましいというか。これ、すげぇ気になるんだよなぁと感じるのだけど、別に間違ってるわけでも無いし、本人には伝えられなくてモヤモヤすることがあります。なにかといえば、句読点です。文章において句読点を打つ頻度や、その位置なんかが気になります。他人が書いた文章にやたらと句読点が多いと、読みづらさが半端なくて疲れます。自分に合わない文章だからでしょうね。


「句読点の多い文章ってどんなの?」っていうと、いいサンプルがありますよ。太宰治です。太宰の句読点の打ち方は半端ない。読んでるだけで太宰の不安定さが精神に組み込まれていく。

かれは、しかし、独身では無い。独身どころか、いまの細君は後妻である。先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開そかいし、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。

(太宰治『グッド・バイ』より)

 

こんな感じ。とにかく太宰は句読点を打ちまくって、文章の流れを断ち切っているんですが、これは意図的なテクニックかもしれない。断ち切ったひとつひとつの文脈に憑依した自分の怨念を読み取って欲しいのかも。ただ、これは文学でして、仕事上で共有するテキストとしてならば、もう少し文章を流れるようにつなげて欲しいと感じてしまう。太宰治と同じレベルでメールの文章に句読点を打ちまくる人もいますが、読んでて疲労感が蓄積されていく笑

 

 

じゃあ、逆にどんな文章ならば私にとって読みやすいかというと、「そのまま音読しても、すんなりとラクに読める」感じの文章ですね。文章の書き手が、相手に自分の伝えたいことを独白するようにして書いている文章は、不自然な区切りも無いので流れるように頭に入ってきます。

 

有名な文学者でそういう文章の書ける人というと、みんな大好きな夏目漱石じゃないでしょうか。

 わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆をっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。


(夏目漱石『こころ』より)


太宰治の文章と比べてみてください。文章がするすると頭に入ってくるし、実際に音読をしてみても、句読点が絞られているから読みやすい。夏目漱石も作品によっては句読点が多かったりするんですけど、『こころ』はとても読みやすい。作品の登場人物が、過ぎ去った出来事を読者に「語る」文体であるので、人が何かを話すときの息遣いに似た文章の流れになっているからでしょう。


仕事上の報連相に関わる文章の場合、できれば上のように夏目漱石の文章を参考にして頂きたいなぁと思ってるんですよ。太宰はぜんぜんマネしなくてよい笑。文章を目にしたときに、それを書いた人の言葉が自然と再生されるような文章ならば、読んでいて不思議と理解しやすいし、疲れません。

 

まぁ、これが相当難しい注文なのは分かってます笑。そもそも他人の文章を変えようなんて傲慢なことはできないので、あくまでも私が文章を書く場合は、句読点の師を夏目漱石と定めてこれからも書いていく所存です。夏目先生がいつもどこかでじっと見ているぞ。

 

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芥川龍之介も私にはけっこう読みづらい文章を書く人。なんかめっちゃ元気に木登りしてますが笑