このまえ、プーチンとトランプの会談があったじゃないですか。アラスカ州アンカレッジの米軍基地にて、米大統領専用車「ビースト」に二人で乗り合わせる直前、上空にB-2ステルス戦略爆撃機とF-22ラプターが唐突に現れ、ちょっとプーチンもビビってる感じでした。きっとトランプの考えた演出に過ぎないのでしょうけど、ぶっちゃけ、ここで二人まとめて爆撃しちまえばよかったんじゃねーかなんて不謹慎なことを思ったのは私だけじゃないはずだ笑。
急にまるで関係ない話になりますけど、前に何度か書いていますが、こんなにブログを書いているのに自分の記事を読み直すのが億劫で億劫で仕方がありません。短期間に似たようなことを続けて書いてないかチェックする必要もあるし、読み返すほかないのですけど、そのたびに感じるのが、書いている本人の人物像がいまいちよく分からんってことですね。
自分で書いていて人物像が分からんって意味分からんこと言ってますが、要するに、私の文章からパーソナリティの匂いがあんまりしないってことでしょう。もちろん匂わせる部分はけっこうあるのです。一応働いているみたいだし、どうやら地方に住んでいて、酒好きで音楽好き。そういう断片は散りばめられているものの、もっとこう、具体的なパーソナリティというのか。今は何歳で、なんの仕事していて、年収はいくらで、家族構成はこうで……というような、人物像として確固たるイメージを構成するものではないのですよね。なんかふんわりした奴がこのブログを書いている☁️

それというのも、私が意図的にそう書いているので、当たり前といえば当たり前なんです。自分の背景情報についてはわざとぼんやりさせておき、書く内容になるべく制限を設けないようにしているのです。ブログに限らずSNSもそうですけど、プロフィールを現実の自分と限りなく近づけた上で、そのキャラクター設定の範疇に収まる内容でアウトプットする人が多いものです。これは多少のプライバシーを犠牲にしつつも、自分のことを吐露すればネタになるわけなのでラクだし、ネタの供給にもあまり困りません。
ただ、あるキャラクター設定に頼ったアウトプットに安住してしまうと、自身の思考性がそこに巻き取られてしまって、同じような内容を繰り返す退屈な自動性を生む要因ともなるのです。それに生きていれば色々と変化があるわけじゃないですか。例えば、仲のいい夫婦が自分たちのキラキラした生活をSNSにあげて評判だったとする。ところが急に仲が悪くなって離婚したら、ネット上での振る舞いをどうしたらいいのか。キャラクターの再設定も必要でしょうし、その新しいキャラが受け入れられるかどうかもわからない、というような「博打」を打ち続ける必要が出てきます。
私はこのブログで博打を打つような頭は使いたくないし、自分のプライベートを吐き出しすぎた結果、めんどくさい事態に巻き込まれたくもないので、自分についてはあえてぼんやりと、霞がかかったような姿にしたい。そうすることで身を守りつつ、書くことそのものの自由度、軽やかさを保ち続けたいという思いがあります。これが私なりの治安維持法というものでございます♨️
ちなみにB-2爆撃機は一機2000億円、F-22ラプターは一機225億円とのことなので、計2900億円がプーチンとトランプの上を飛んだと考えれば豪勢な話。