口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

家事のむずかしさ。

働いておらず家にいるので、なし崩し的に私が主夫のような役になっています。朝のゴミ出し、洗濯、掃除、買い出し、回覧板を回す、草むしり、電球の交換、宗教の勧誘をやり過ごす、などなど、毎日やることが絶えません。

 

家事は苦ではないことなので、なんとなくこなしていますが、時々、一切合切がめんどくさくなることがある。なんでこうも毎日毎日、家事が押し寄せてくるんだろう。もう21世紀だというのだぞ。新時代を迎えたというのだぞ。そう思うこともある。

 

たまに弟がヒマそうにしていると、「風呂掃除とかやってくれない?」と頼むこともある。すると「ぬあ~」などと、微妙な返事をするわりに、ちゃんとやってくれるので良いのですが、基本的にはその一回ぽっきりというか、連続はしませんね。習慣として身につけてくれる気はないようです。

 

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すると、毎回頼むのもめんどくさくなり、結局は自分でやった方が早いと思うこともある。それに、人によって「家事の完成度」というのはどうしても違ってきます。最近読んだシェアハウス関連の本で、「サービスレベル」という言葉を知りました。サービスレベル=家事の完成度というような意味だそうです。

 

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

 

 こちらの本によると、他人同士で住むシェアハウスにおいて、家事を共有化し、分担して行う際に、この「サービスレベル」の課題というのが表に出てくるようです。個々のサービスレベルに違いがあるのは当然のことなので、他人の家事に不満があったとしてもある程度は妥協することが、シェアハウスに住み続けることを前提とした場合、ひとつの解決法になるわけです。それが嫌なら、一人暮らしをして自分でサービスレベルを維持すれば、この問題は完全に解決します。

 

こう考えると、なかなか家事というのは難しい立ち位置にあるものなんですね。家事を自分で担うというのは、めんどくさい部分があるとはいえ、「自分の納得する生活環境」を手に入れているということでもあるわけです。自分の手で自由を手に入れるための、行動でもある。

 

一方で、他人に家事を依頼するとなると、自分にとってラクになる部分はあるものの、確実に自分が望む環境が得られるとは限りません。最近は家事をプロに頼んだり、フィリピン人のメイドを期間限定で雇ったりだとか、ずいぶんとデラックスな話を身近で聞いたりもするんですが、プロの仕事というのは、柔軟性を欠いている部分も多々あると感じます。言葉にできない微妙な齟齬も、あるのではないでしょうか。

 

私としては、家事を自分の手でする機会を失いたくはないと思っています。なにより、自分で家事をすれば自分が分かるからです。だんだんと自分という存在が、現実でもネット空間でも多層的に複雑になっていく過程において、自分の力量を測れる身近な仕事として、家事はすぐそばにあって欲しいと考えています。