今週のお題は「夏休みの宿題」ということで、いまどうなってんのか知りませんけど、私が小学生のときは「夏休みの友」とかいう薄っぺらい問題集がありました。それに読書感想文と自由研究、あと絵かなんか描く課題があったはず。ちなみに、私は夏休みの課題が渡されたその日、頭のいい友達と談合し、放課後の図書室で夏休みの友を終わらせる(友達の回答を丸写しする)などし、これが先生にばれてめっちゃ怒られました。おかげさまで以降、何事もコツコツやるようになりまして、現在はブログに飲酒、整形外科への通院等をコツコツやっておるところです。
それはともかく、自由研究なんてのはぐわっと何か思いついてやる勢いも大事じゃないですか。うちで飼ってるペットの観察なら、コツコツと日々の眼差しを重ねていくみたいな感じですけど、家にある調味料を全て同じ分量で混ぜ合わせるとどんな味がするんだろうとか、インスピレーションに従う方が絶対やってて面白い。宿題を超えて、立派な夏の思い出ができあがるポテンシャルがある。
ともかく、夏休みの宿題って、コツコツやるべきルーチンと、発想の勢いを借りて解決する課題の組み合わせとしてはなかなかいいバランスなんじゃないですかね。もちろん、誰しもインスピレーションに溢れているわけでもなく、コツコツが得意なわけでもない。当人のバランスは凸凹していて、その合致のしなさをどう乗り越えるかが宿題の本質だったのか、なんて今は思いますけども。
乗り越え方として「逃げ」を選択するのも夏の風物詩みたいなもんですね。それこそ、まったくやらずに夏休み最終日になり、親に怒られながら全部やるなんてのは伝統芸みたいな逃げっぷりですけど、これも実は計略的かもしれない。親に頼ることを想定してギリギリまで夏休みを楽しみ、そろそろヤバいかと思ったところで宿題やってねぇと白状する。親が宿題を手伝ってくれることを見込みつつ、助力を含めても終えられないラインは越えないようにする。みたいな計算がその子の中であるのかもしれないし。
あと、自由研究は発想が大事って書きましたけど、「なーにが発想じゃ、パリピめ。ワイはトマトの成長日記をコツコツ書いて夏を終える」とかいうのも逃げとして有効な手でしょう。提出できればそれでいい。このマインドでなにを守るかといえば、もちろん自分のプライベートです。プールに行ったりゲームをしたりと、比重を置くのはそちらだからこそ、宿題の手を抜く。それも、「教育者の期待に付き合わない」というニュアンスで手抜きし、出すものは出してクリアするという逃げ方なわけです。
そう、夏休みの宿題からして、我々はすでに世渡りの術を学んできたのですよね。ある人は天才的な発想で宿題を思い出に昇華し、ある人は親に依存し、ある人は要領を抑えてさっさと遊びに行き、私は友人と談合するなどし教育制度の穴をつく。そうしてみんな大人になっていったのです。あ、そういやこないだXのスペースで友達と話してたら、何故か急に読書感想文を書くことになったんですよ。その課題図書が、
これになりました。読むの何年ぶりになるだろうか。もしよかったら皆さんも一緒にやりませんか。大人にも夏休みの宿題があるのはいいことかもしれないですぞ🌴