口から出まかせ日記【表】

もうすぐゴールデンウィークですね(早)

力を借りて撮るだけです。

 

行から戻りました。天候不順のため、二泊三日の予定を一泊に切り上げました。十数年ぶりの平泉、良かったです。でも、ちょっと快適過ぎましたね。新幹線と在来線を乗り継いで、現地では周遊バスに乗って移動という、実に足に優しい旅程。毛越寺や中尊寺ではそれなりに歩いたけど、それにしても負荷をかけなさ過ぎた。


正直、不完全燃焼な感じなので、できれば九月中にもういちど旅行をしたいなと思ってます。今度はもうちょい体力に負担をかける方向でいきたい。まあ、節約も兼ねてバイク旅行になるかと。もうプランはできてまして、あとは体調とお金と天気次第です。九月は三連休が二回あるわけだから、どちらかで行ければいいですね。今度は海を目指したい。


それはいいとして、今回も旅行先で大量に写真を撮ったんですが、観光地で撮ってると、風景に写真を撮らされているような感覚になりませんか。例えば、いい感じの仏像があって、ちょっと撮りたくなって撮る。で、「映える」写真が撮れて、とりあえず悦に浸ることができる。ただ、あとあと改めて撮った画像を眺めると、「そもそもこれ、どう撮ってもかっこよく撮れる仏像が凄いんじゃないか」となるわけですね。


仏像そのものは勿論、それが安置されている場所の様々な要素も含めて、かっこよく人の目に映るようにした古来の人たちのセンスや努力が凄いのですよね。こっちができることなんかは、せいぜいどの角度で撮るかとか。あとは色彩補正やらハイライトやら、しゃらくさい数値をいじることしかないんじゃないかとすら感じられてくるのです。

 
中尊寺の弁慶堂にある弁慶像の表情がエモくて涙出た


これは人工物だけじゃなく、そのへんに生えている植物なんかを撮るときも同じ。綺麗な花が咲いていたりすると、つい撮りたくなりますが、当然、花は撮られるために咲いたのではなく、たまたま咲いていただけ。それが偶然にも私の眼に「映える」ようそこにあったからこそ画像に納められる。咲いたのは花の力であり、こちらはたまたま、その場所にふらふらと立ち入ったに過ぎません。


これはおそらく素人の感覚なのでしょうが、そもそも写真を撮る側からできることって、そんなにないんじゃないでしょうか。カメラを用意して、撮りたいものがある場所に赴くこと。能動的にできるのはこれぐらいですかね。あとはもう、「向こう次第」となる。自分が満たされる何かが出現するのを待つ、受動的役割をひたすら担うのが写真家なんじゃないかと。


逆にいえば、向こうから現れたものが持つ力を借りるのが得意な人ほど、優れた写真家といえるのでしょうか。仏像はそれ自体すでに完成されている。ならば、その仏像のどの部分を捉えて、それが醸し出す力の新たな側面を導けるかどうか。そんな課題を常に考えながら撮影することができれば、きっと上達しそうな気がします。いや、素人がめっちゃ適当に言ってるんで、ここはツッコんでいただいて結構ですよ笑


私はあんまり構図とかもよく分からないまま撮影してるんですが、なんていうか、私自身はよく映すための努力なんてしてなくて、寧ろ、向こうがこちらに素晴らしい風景とか、物の配置なんかを見せてくれるので、こちらはそれを素直に撮ればいい。そんな感覚があります。あとは露出、ハイライト、彩度、シャープネスにも大変お世話になっております。ということで御中。

 

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カメラといえば、アズテック・カメラっていうバンドがあります。80年代にスコットランドで結成されたバンド。バンド名を直訳すると「アステカ族のカメラ」