口から出まかせ日記【表】

朝、鳥がすげぇうるせえ。

優しいなんてついででいい。

 

突な自慢ですが、人から「優しいですね」と言われることが多く、そのたびに、「今さら気付いたんですか?」「人として性格が優しいっていうのはね、納税してるのと同じで国民の義務ですよ」「こんど一緒に競馬場行きましょう」などと返答した結果、優しいけれどやや狂人みたいな扱いを受けながら世渡りをしてきました。得か損かでいえばほぼほぼ損してるでしょうが、五体満足で生き、今もこうしてリズミカルに屁をこいたりしてるのだから良しとしなければならない。


それはどうでもいいとして、ずいぶん前からネットの世界では、性格の優しい人ほど損をするみたいな価値観が蔓延していると思うのです。「優しい人」=「気の弱い人」という捉え方をしている人がいて、弱いなら叩いてしまおうと、攻撃性の高い人の標的となりやすい風土のようなものがあるのでしょう。そもそも、メッセージに宿る攻撃性をSNSなどでは評価されやすく、だからこそ反撃してこない「優しい人」を標的に設定している節がある。


しかし、皮肉なことに攻撃性のある人ほど、ネットで大勢から敵と見做されると、叩きやすい目標になってしまうものです。とりあえず、ネットに蔓延するマウンティングに満ちた価値観は、そこに根を下ろす人のためのエンタメであり、実際に人と接しながら、計り知れない運との巡り合わせや、機敏の中で生きる感覚と比べて、さまざまな面で浅はかになっている、とでも考えておきましょうか。

 

 

ちょいと話が変わりますが、性格が優しいのは良しとして、そこに自信を持つというのか、アイデンティティみたいに考えるのは、ちょっと違うんじゃないかなと思ってます。なぜなら、「自分は優しい」と自分だけでそう思っているのはただの妄想ですし、基本的には外部評価でしょう。しかも人によって捉え方はコロコロ変わる。親切にしてあげても、必ずしも相手が良い印象を持つかは分からない。というか、何ら行動に示さなくても、単に大人しくしてるだけで、「この人は優しい」と捉える人さえいる。


なんにせよ、相手の反応に依存した価値観です。特定の人へ積極的に働きかけ、信頼を得て、「優しい」という評価を確かなものにすることができれば自信にもなるでしょうが、依存していることは確実でしょう。そのへんの人情を利用する人たちが、この世にはわんさかいるわけです。「頂き女子」もだし、その上部にいるホストも人の優しさを利用して金を巻き上げようとする。自分の優しさを誰でもいいから評価されたいという感覚は、誰かに悪用される危うさがある。


思うに、優しさというのは積極的に与えようとするのではなく、「ついでにそうする」ぐらいでいいんじゃないですかね。さりげない配慮に添える形で、優しさがあればいいのではないか。うちの職場でも大して性格が良くない、ていうかむしろ間違いなく悪い人がいるんですが、その人の本当にちょっとした所作、たとえばドアを開けるときの仕草に優しさがこもっていたりする。私はそういうのを粋だと感じるし、優しいなんてそんなもんでいいんだよなって思ったりしてます。


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細川たかしが時代の最先端なんだぜ。