こざっぱりとした人の正体。

 

近、東京あたりのゲリラ豪雨の中継をニュースでやってたりしますが、ずっと昔からおかしいのが、リポーターの装備です。洞窟探検にでもいくんですかみたいな防水ウェアで身を固め、新橋あたりで雨ざらしになりながらやっている。あほらしくならないんでしょうか。それとも雨に濡れると特別手当でもつくのかしら。


台風の時なんかも何故だか体を張ってくれますが、ぶっちゃけ、そんなことしてくれなくていいのです。こざっぱりとした格好で、屋根の下で淡々と説明すればよろしい。視聴者に何かしら体感的なものを伝えたいんだったら、雨風に煽られて地面をのたうちまわるサラリーマンとかたぶんいるからそれらを映せばいいわけです。わざわざ自分から被害者になりにいくマインドはいらない。


話が変わりますが、ジメジメしてきたので、こざっぱりとした格好をしたいと思い、色々と新調したいので今度買ってこようかと思ってます。大事なのは素材。夏に着るなら、シアサッカーとかリネン素材の軽くてサラリとしたものが欲しい。軽い素材は洗濯して乾くのも早いから、家事がダルくなる真夏の味方でもある。てことで、今度ちょっとユニクロ無印しまむらGUワークマンを巡ってきますわ。

 

 
こざっぱり風の服を洗って夕方に干している笑


ところでさっきから「こざっぱりとした」を連呼してますが、私はこの「こざっぱりとした」という言葉の響きや、そこから醸し出されるイメージが好きです。なんかいいじゃないですか。できれば私自身、こざっぱりとした人間になりたいものですが、こうやってブログをネチネチと書いている時点で、こざっぱり感はマイナスを突き進んでいるように思える。いや、もしかして逆か。こざっぱりとした印象を人に与える、その前提として、自分の内側に籠った湿度をどこかで放出できることが条件なのかもしれない。


実際、現実社会でこざっぱりとした印象の人と会ったり、一緒に仕事をするのは、気持ちの上でとても気楽です。それは、その人自身のストレスコントロールが上手くできているからかもしれないし、実際にはストレスを抱えているにせよ、そう感じさせない風貌だったり、服装だったり、物腰だったり。諸々の要素が組み合わさって、相対する相手に軽やかなものを感じさせるような「演出」を身につけているのかもしれません。


それは、ストレスを抱えた人と相対する苦労を知っているからこそ、自分はそうならないと覚悟を決めた姿でもあるのでしょうか。自分のストレスを他人に可視化させないよう、配慮しながら生きている。それが「こざっぱりとした人」の正体だとすれば、私なんて未熟千万。ストレスがたまるとつい上司のいない隙にペン立てから無駄に高そうなボールペンを一本拝借してものすごい勢いでペン回しをしたらどっかに吹っ飛んでいき、「あれ、俺のペンねえぞ」とウロウロしてる上司を真顔で見つめるなどする私にこざっぱりなど遠い。

 

youtu.be

最近のビヨンセの格好は、こざっぱりしてるっていうよりか布をテキトーに羽織ってるだけだ。