朝、後ろをだいぶ警戒しながら通勤してます。自転車通学の学生さんが突っ込んでくるからです。交通ルールが厳しくなったはずですが、お構いなしでブレーキもろくに掛けずに坂の上から駆け降りてくる。普通に歩道をです。しかもなんか下手くそな歌を歌いながら。どうせ米津玄師か藤井風だろ。ぜんぜん関係ないですがブラックフライデーは大量の貼るホッカイロを注文しました♨️
そういや、アクセルとブレーキを踏み外して、なんてそこらでよく聞きますが、別にこれ、乗り物だけの概念じゃない。料理だってアクセルとブレーキを踏み外すと悲惨になります。麺つゆ、カレールー、米酢をアクセル全開で投入した結果、「ウガンダ料理ができた」とかいって騙して食わせるほかなくなる。運転にしろ料理にしろ、思い切り行くとこは行き、止めるところは止める。という緩急があればこそ、信頼できる技術としても、また習慣としても身につくのだと思うのです。
とりあえずアクセルをふかすだけじゃ、アドレナリンの暴走でしかない。ブレーキをどこでどの程度かけるかを意識してこそ、持続性が伴い、習慣として落とし込むことができるはずなのです。何より、アクセルで突き進むだけでは本人が疲弊するばかりでなく、他者への加害性が生まれやすい。判断力が鈍ると、誰かを轢く危険性は文章にもある。気持ちよくなって書いていたつもりが、後ろを振り返ると誰かの血に塗れているかもしれないのです。よし、ここまでで誰か轢いてないか一回確認だ。あっ……
もう5年ぐらい書いているこのブログも、アクセルとブレーキで成り立っている代物だと思います。たぶん初期の頃から内容的にブレーキが効いているような気がする。書きたいことは書く。でも、書きながらどこまでで留めておいて、どのへんで離脱するか。そのあたりをなんとなく考えながら文章を書いてきたと思いますね。ネットは衝動的なテキストに溢れ、衝動的に持て囃され、衝動的に捨てられている。まあ、そういうの、嫌いなわけじゃないんですけど、急に栄えたと思ったらすぐ焼け野原になる風景は、自分の習慣としてはふさわしくないなと思ったわけです。
だからこそ、ブレーキは上手くならなければない。それを能力不足とか、表現を妥協しているなどと捉えると、何より自分が犠牲になります。自由に書いていいと言われた場でまず意識しなくてはならないのは、その自由な場の外に根付いている、自分自身や他人との関わりの中で生まれた大事な習慣と、隣り合わせて並べることができるかでしょう。ちょうど良いスペースにひょっこりと並べておけるサイズに習慣化すること。つまり、共存のためにアクセルとブレーキの意識がいるわけです。
書きたいことが溢れる人ほど、その総量というかパワーを抑制するために、ブレーキを意識しないと埋もれてしまうことになる。伝えたいことをどこまで伝えるか。全部伝えれば10,000文字になるところを、ブレーキを効かせながら、1,000文字×10で10記事に仕上げることもできる。ブレーキをかけることで負担を分散させ、成果もかえって増えるということがありえるわけです。ま、とりあえず結論として、運転が上手くなればドライブに頻繁に行きたくなるのと同様、文章も上達を感じてこそ頻繁に書くようになる。それは、アクセルとブレーキを意識できてこそ、だと思います。
俺のクリスマスプレゼントこれでいいよ