口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

ブログは研ぎ石。

 

ログを数年間続けているせいか、書いてる途中で「これって前に書かなかったっけ」と思うことなんかしょっちゅうあります。ま、それならそれでいいかと、図太く書き続けられるかどうか。ブログの習慣が続くかどうかはこの辺りの開き直りが重要なのです、みたいなことも絶対に前に書いた気がして、三行ごとぐらいにデジャヴを感じる今日のこのごろ。


ただ、これも絶対に前に書いた気がするんですが、書き手と読み手の意識はそんなに一致していないはずなんですよね。書き手の方が、「俺、いっつもおんなじ文章書いてるな。これじゃダメだ」とか思っていても、読み手の方はそのマンネリ的な文章を読むことが、新聞の4コマ漫画を毎日欠かさず読むのに似た生活習慣となっていたりするので、書き手がなぜそう悩んでいるのか、いまいちピンと来なかったりする。


ファンはマンネリ化した文章でも受け入れるどころか、寧ろ歓迎すらするものです。一方で書き手は、そんな文章を書き続けることに違和感や危機感を持つことが増えていく。読み手は同時に書き手である場合もあるわけですけど、他の人のブログを読むときは既視感のある内容でも楽しく読めているのに、いざ、自分で書いた記事の内容にマンネリ感が生じると悩んだりするのが、人間の難しいところ。

 

 

 

なぜ読み手と書き手でこうも感覚が違うかといえば、もちろん書き手は、自分の「体感」として文章を書いてるわけで、その感覚が満足できるかどうかで意識が変わるのは当然です。自分で文章を書いてみて、これは自信あるとか、なんか微妙だとか、書いた際の感覚を通して自分の文章を判断している部分がある。その結果として完成した文章に対する評価が、書き手の感覚と通じていない読者と差異が生じるのは、当たり前の話ではあるわけです。


でも、その差異が広がるほど、書き手はだんだん辛くなってくる。それを多少緩和する考え方があります。「ブログは意識の研ぎ石」だと意識する方法です。つまり、ブログを書くことで生活習慣が保たれたり、まとまらなかった考え方が整理されたりと、自意識を「研ぐ」ための行為なのだと認識することで、書くことそれ自体の効能を感じられようになるわけですね。


そうすると、例え書いた記事の内容がイマイチだと感じても、「私はこれを書くことで自分の心を研いだのだ」と考えることもできる。その文章を書くことは、今の自分には必要なことだった。そのぶん、自分の中の何かが研ぎ澄まされた。ある種、日常的な「禊」としてブログを位置付けておくのはいいことなんじゃないかなって思います。

 

youtu.be

最近聴いてるオービタルの新曲。30年以上、実の兄弟でやっているレジェンドなテクノバンド。