口から出まかせ日記【表】

酢の物が美味しい時期になりまして。

「地元に何もない」という幻想。

 

場に新卒の新入社員が入ったのですが、聞いた話だと、学業の関係で各地を転々としているらしく、この度どういう因果か私の住む福島県福島市にて就職となったそうです。こんな吹き溜まりのような土地によう来てくださった。とにかく夏は暑くて冬は寒い。虫もうじゃうじゃいる容赦ない所ですが強く生きて欲しい。


ところで私はここ8年くらい地元に腰を落ち着けています。それ以前は各地を転々としてました。といっても距離感的には大したことがない。地元と隣り合ういくつかの県に暮らしたぐらい。あと、一時期京都に親戚が住んでおり、ホームステイ的に1ヶ月ぐらいぶらぶらしながら暮らしてたことがあります。


その過程で認識が修正されてきたように思えます。「私の地元には何もない」という幻想がです。高校生くらいまでは特にそうで、「なんでこんなに自分の住む所には何もないんだろう」という感じを持っていたはずなのです。当時はいったい何があれば満足だったのだろう。でかいビルとかかも。とにかく、地元が周囲よりも見劣りしているような感覚を抱いたまま、その地元を出ることになりました。

 

 

 

結果、でかいビル、地下鉄、人に満ちた交差点、深夜にファミレスから街の夜景をぼんやり眺めることなどに事欠かない環境に置かれまして、ようやく人生始まった気がしたのです。が、そんな光景だって3年ぐらい経てば慣れて飽きがきてしまい、その反動で旅行なんかして各地を巡ると、「このへんも案外こんなものなのか」と感じることも度々増えました。


そうして、たまに地元へ帰省するたびに、「私の地元って案外悪くないんじゃないか」と見直すようになってきました。そりゃ、でかいビルなんてないけれど、風情のある個人店が残っており、いい感じに年季の入った商店街もまだある。なにより、晴れると向こうに雄大な山々が見渡せるじゃないか。自分の嗜好がだいぶ変化したのもあるかもしれないけれど、いまの私の目線で地元を眺めると、住民の暮らしと根付いている確かな安寧を感じられる。それをなぜ、かつての自分は感じ取れなかったのだろうか。


先日、私の地元をある人に案内したのですが、自分に余裕が感じられるのが分かりました。自信をもって薦められるお店や風景が、自分の中にしっかりと根付いているからこそ、そう感じられたのかもしれない。そう考えると、「地元」というものは、もちろん現実的な環境も関係するのでしょうが、もう一方で、それを眺める人の精神的な世界の中で作り上げるものでもある。そして、あるときその二つが和解することによって、地元を認めたり、赦したりすることができるようになるのかなと思いました。

 

youtu.be

カート・コバーンが死んでから30年も経ってしまった。しみじみ。ちなみにカートさんの故郷はワシントン州アバディーン。本人はあんまり好きじゃなかったみたいだけど、グーグルストリートビューで眺めると、サイクリングとかするのに良さそうな雰囲気の土地。でかいビルはまったくない笑