このまえ、読書について書きました。電子書籍がありながら、なんで紙の本を買うのか。それは利便性によって削ぎ落とされた本質を買い戻すため。みたいなことを書いたような書いてなかったような気がします。
あれからまた積読が増えました。これを私は三角食べならぬ三角読みの要領で読んでいるんですが、最近買ったガルシア=マルケスの『族長の秋』。これがまるで泥沼を進むようで、いつ読み終えるかわかりません。しかも、よそ見をして本棚にあった北大路魯山人の『料理王国』を手に取ったり、つい寄り道してしまうんですから尚更です。たぶんずっとそういう人生です。
話が変わりますが、「読書に利益なり効果があるのなら、ちゃんとそれを説明して欲しいんですけどぉ」みたいな意見に対し、「ほう。貴殿は読書に即物的な効果を求めると。愚かですねぇ。ほら、月も泣いている」などと小癪な返答をされるみたいなことって昔からあるじゃないですか。こういうのはだめだと思います。読書に利益や効果があるのかと聞いているわけですから、まずイエスかノーで答えて、続いてその裏打ちとなる自身の経験について述べるべきなのです。それができないのなら、能力不足を認めるしかありません。謙虚になりましょうよ。
んじゃあ、お前が答えてみいお前が、と言われようにも、このとおり私は謙虚ですので、そのへんは正直いまだによくわかりません。とりあえず、読書が盤石な習慣であることは確信しています。なにをしたらいいのか迷ったら読書すればいいので、そこだけは一生涯保証かと。じゃ、先の人生でなにも向上がなかったとしても、読書さえできていれば幸せなんですかと言われれば、うーん、いやちょっとそれは流石にどうなんだろうとは思います。
私にとって、読書は楽しむためだけでなく、少なからず、読み続けた先にいる自分の状況を期待しながら待っているようなところはあるのかなと。でも、読み続けてそれで何者になろうとしているのか。そのあたりがはっきりとしていません。もし、きのこ博士になりたかったら、きのこの本を読み繋いでいきながら、きのこを採取しつつ、どこかの研究所に入ったりもして、きのこ博士になる人生の段階を踏んで進む体験を伴うものでしょう。私にはそんなの一切ないです。なのに、普段からきのこ図鑑を熱心に読んでいるのです。
ともあれ、先の見えない世の中で、今こうして呑気にブログを書いている私もまた、過去の自分からして、本を読み続けた先にいる未来の自分と捉えることもできるわけですよね。文章を読むだけでは飽き足りずに、ついには自分で書くようになった。そんな段階を進んでいるといえますか。とすれば、この次の段階があるかもしれませんから、悠長に期待しておいていいのかもしれません。
そういやサブブログの方で今年は小説を書きたいとか書いてるから有言実行しなくては……