急に暑くなって気温もちょうど30度くらいになり、天気予報士が「7月並みの気温となるでしょう」と言うのを聞いて、7月並みがあるんだったら7月強とか7月弱がないとおかしくね、と、一瞬思ったものの、だからよぉそれが7月上旬並みとか下旬並みなわけじゃんアホかと、直前の自分を直後の自分が全否定するスリリングな日常を送っております♨️
それはどうでもいいんですが、このまえ、ゆきにー (id:yuki_2021)さんの記事を読んで、色々と思ったことがあります。
たまには、外から見て心地よい文章というのも書いてみたくなる。でも、いざ自分の過去の記事を読み返すと、思わず「なんでこんなに卑屈なんだろう」と思ってしまう。文章に染みついた自意識の匂いが、自分で読んでいても鼻について仕方がない。
私も自分のブログを読み返すのがかなり億劫です。昔の自分、ここでなんでこんな寒いギャグをかましたんだとか、どうしたらこういう結論に至るのかとか、改めて読むとどこかしら恥ずかしい。そんなものを投稿したこと自体、浅はかな行いだったんじゃないかなどと感じられてきます。
ただ、そう考えてしまう自意識をいったん置いといて、ぐっと抽象的に考えてみれば、ブログを書く習慣とはそもそも、過ぎ去った過去の自意識を発見することがその目的のひとつではないかとも思えるわけです。さらにいうと、自意識を評価するには、「間隔」と「媒介」が必要で、ブログはその両者を備えているからこそ、過去の自意識に感想を抱くことができるのかなと。

「媒介」とは、二つのものの間に立って仲介するもの、という意味ですが、ブログのプラットフォームは、それこそ媒介の役割を果たしていますよね。ブログ記事を投稿することで、記事が「向こう側」に保存されて、「リアルタイム」にいる自分や他人が、過去記事を読み通す。ブログが仲介しているのは時間軸そのもので、そこへ投稿を続けるというのは、自意識をブログ記事に含ませて、どんどん貯蔵しているようなものです。すると、それらの自意識もいずれはヴィンテージとなる。
だからこそ、投稿した直後は自意識のことなどあんまり考えないものですが、時間をあけてから読んだときに気づいて、鼻につくようにもなるわけですね。発酵臭みたいなもんですわ笑。これは記事に含まれた当時の自意識と、現状の自分との意識に「間隔」が生じて、客観性を伴うからこそ判定可能になるわけです。なので、これは逆説的ですけど、自分の過去記事を読んで、「なんだこの卑屈な文章は」とかいう感想を抱けるのは、そういう形で客観性を引き出せる「熟成した記事」なのではないですか。
ならば、それをあえて改善する必要すらないんじゃないかと私は思うのですよ。なぜなら、そこで反省して明るい記事を書こうと試みたとしても、判断するのは時を隔てた自分です。明るい記事を書こうと画策した、その見え透いた狙いを承知の上で、ほとんど他人のように冷めた目でそれを読むこととなる。その時点の自分と相入れない自意識が、また異臭を放つことでしょう。これは一生巡り続ける精神的なバイオリズムの一環かもしれませんから、こうしてブログを書いている瞬間はそのあたりを忘れて書くのが、精神衛生上は健全じゃないかと思うんですけどどうでしょうか。
毎年、「夏に聴き通すアルバム」を選んでいるのですが、今年はタチアナ・エヴァ・マリエのアルバムに決定しました。