口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

イベントに頼らない生活。

(今年の二月に一度投稿したものを一部修正したものです。イベントには頼らなくても生活できますが、イベントが必要ないわけではありません。なにか新しい体験をしたいという感覚はいつもあります)

 

★★★

 

 

あらためて自分のことを眺めてみると、30代に入ってからというもの、20代のころと比べたらだいぶ落ちついています。当たり前といえば当たり前か。20代より落ち着かない30代っていうのは、どう捉えたらいいのでしょう。

 

色々と問題はあったとはいえ、それなりに20代を楽しく過ごすことができたので、30代に入ってから、持ち込むものが少ないのかもしれません。荷物を少なめにして、過ごしているような感じです。とはいえニートなんだけどね( ´∀` )

 

20代と比べて、特に行動の面での大きい違いは、出かけなくなった事。いや、今でも出かけますが、頻度とか距離間隔が変わりました。昔はとにかく頻繁に長い移動をしました。休みになれば、東京とか仙台へしょっちゅう遊びに行くし、連休ともなれば京都や九州あたりにもいきました。20代の半ばにはバイクを買ったので、それに乗ってちょこちょこ出かけましたし。

 

いま考えると、なんであんなに移動していたのかよく分かりません。しかも、移動した先で何をやっていたのか、あんまり思い出せないのです。もちろんその土地の名物を食べて、寺社仏閣をめぐり、買い物をし、たまたま仲良くなった人たちとぶらつくなどしていたのは確かで、なんとなくなら思い出せます。

 

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ですが、仙台も東京も横浜も金沢も京都も神戸も長崎も、すべての土地の記憶がごちゃ混ぜにミックスされ、なにがなんやらよく分からない。とにかくそこに行って、何かをして、というイメージが、乱雑なエネルギーを保ったまま頭の中に残っているわけです。

 

これが若さか……と、納得してしまえばそれで終わりだけど、「若さ」とは、そもそも何だったのだろう。私に津々浦々を徘徊させるエネルギーを起こさせた「若さ」とは、いったい何だろう。

 

そう考えてふと思いついたのは、「若さ」とは「思い込み」の事じゃないかということ。その思い込みというのも、複雑な要素が絡み合っているのだろうけど、簡単に言えば、「人生は充実していなければならない」という思い込みかもしれません。

 

私は、「人生を充実させるには、外に出なければならない」と思い込んでいたのかもしれない。充実させる要素は内ではなく、外にあると。自分がまだ見ないものを見て、食べたことがないものを食べることで、充実させることができるんじゃないかという「勘」が働き、外に無数に点在するイベントらしきものへ誘ったのかもしれない

 

要は、自分なりに「リア充」になりたかったのでしょうか。巷にあふれる「リア充」の基準というのは、「他人に説明しやすい充実感」のことです。私は、そんなに友人が多い人間ではないから、友達の多さで充実感を誇ることはできないけれど、どこかに出かけて何かを見たり食べたりするのは、ひとりでできる。そこで、「リア充」になるために、有名な寺社仏閣やらを詣で、名物を食らった。そういうことかもしれない。

 

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これは今の自分からすると胸焼けしそうな感覚です。いま私の「リア充」は、自分の日常が平穏無事に過ごせること。それがなにより一番です。誰にでも理解されるように計らう必要も感じません。イベントで日々が潰される方がストレス。だから、「働く」という社会人にとって基本のベースとなるイベントからも遠ざかってしまったわけです。

 

最近の自分の中での「リア充」の変化について、覚えていることがあります。数年前に親戚の家をねぐらにして京都で遊んでいた時の事。最初の3日間ぐらいで著名な建物を回りきったところ、疲労困憊して、もうすっかり嫌になってしまったのです。自分が観光をしているというより、京都に観光させられている気分になったからです。

 

で、その後の数日は地味に過ごしました。鴨川のそばを歩いたり、図書館に行ったりし、疲れたらすぐ家に帰りました。食べ物だって、わざわざ宣伝されている店に行かなくたって、京都市民が普通に食べている豆腐とか漬物が美味しかった。かえって、そうした日常的な行動に深い充実を見出して、心からほっとすることができたわけです。私が変わっていったのは、そんな体験があった後からだと思います。