前にお伝えしたnoteのアカウントにも記事を投稿し始めました。現在、三記事ほど投稿済みですが、すでに頭が混乱気味です。noteに投稿したつもりが、自分の中ではてなブログに投稿したつもりになってたりします。そのうち、はてなに投稿するつもりの記事をnoteに投稿するとかもあるかもしれません。どうぞ御贔屓に。
なんだか私事ばかりで恐縮ですが、今月中に二泊三日程度で旅行が出来たらなぁと考えています。今年の夏、バイクに荷物を積んで出かけ、どこかの民宿に二泊ぐらいしつつのんびり過ごせたらと考えてたんですが、相次ぐ緊急事態宣言や蔓延措置防止法の施行により断念せざるを得ませんでした。そのショックで意識が狂いを起こし、一泊に四万五千円つぎ込むなどしましたが私はたぶん大丈夫です。寒くならないうちにリベンジというか、今年の思い出を自分の身に刻印したいと思っています。
考えてみると、いつまで経っても思い出作りのことを考えている気がしてきました。十代二十代の頃は、身の回りの他人と同じ程度、もしくはそれより下か上かという謎の物差しを以てして、いちいち自分の体験を自己評価していた覚えがあります。周りの友達が出かけた場所とか体験したことについて、興味を惹かれる一方で羨ましさが募り、嫉妬心が燃える。でも次の瞬間には、「俺には度胸もマネーも足りん」と、心の中で血の涙をながすことも、あるにはあったのです。
三十代の今はどうか。さすがに嫉妬めいためんどくさい感情は引きましたし、「あの時の体験があってして、いま自分がしていることや、物の感じ方に繋がっているのかも」と、漠然としてますがそういう感じで捉えることが増えました。今こうしてブログを書いているのも、やはり過去の体験が糸でつながっているのでしょう。その糸を切らないようにすることは、過去の体験に現在進行形の体験で得た認識を継ぎ足していくことでもある。しばらく蔑ろにしていた体験も、そうすることで「失地回復」してきた面もあるのかもしれない。
とはいえ、過去の思い出だけでは不十分。これからもどんどん新しい思い出をつくらないとたぶんやっていけません。できればその年ごとに、「思い出の代表選手」みたいなのをきっちり作っておきたいところ。それが無いと、後々思い出すときに漠然とし過ぎてなかなか不安になります。2013年頃なんて完全に思い出作りに失敗して、自分が生きてたのか死んでたのかすらさっぱり分からないんですよ笑。
鮮やかな思い出がつくれれば、ある種の「刻印」となり、その当時の自分をある程度肯定できると思うのです。別な言い方をすると、「思い出で刻印すれば、その当時の自分を理解できる」というのが正確かもしれない。若気の至り的な、いま考えると恥ずかしい思い出であっても、「その当時の自分であったなら致し方ない」と煩悶しながら許すこともできるし、なによりその体験があるという事が、当時の自分を理解する手掛かりになる。
それが何もないというなら、自分で自分が理解できない空白があるわけですね。これは記憶喪失に近いんじゃないかと私は思います。もちろん自分の全てを思い出す必要なんて全然ない。それはむしろ病的ですよ。でも例えば、自分の記憶が収まった図書館にいるとする。「2021」の書架には本がそこそこ並んでいて、一冊取って眺めると、そこには自分の体験したことが綴られている。ところが「2013」の書架には何も収まっていない。
そんなふうに即物的に考えれば、何もないというのは単純につまらないし、寂しい。何かしらあれば、そこから取り出して、面白いところだけ適当に眺めて仕舞うことができる。そういう意味で、思い出が残ることは「便利」でもあるのだろうと思っています。ああ、いま猛烈に海鮮丼が食べたい。でも、スーパーでちゃちゃっと素材を揃えて食べても大した思い出にならんのだ。鄙びた漁港の隅にある薄汚れた食堂で、労務者のおっちゃん達と肩を並べつつ、潮風を背中に感じながら海鮮丼を頬張りたい。それが出来たら今年は1000点です。
山下達郎さんの曲は、どれも思い出が起点という感じがする。