尻と左足が若干痛いです。仕事の帰り、職場のビルの階段で、最後の二段をなぜか踏み外しまして、ズルっといきました。気まずかったのは、踏み外した先で、上の階の他社の社員と非常にダイナミックな感じで出くわしたからです。相手の方はかなり驚かれており、私は私でテンパって、「こんなお見苦しいところを云々」とかなんとか、よく分かんない返事をしてしまいました。てへ。
着地といえば、「このブログは一体どこに着地しようとしてるのだろう」と、たまに思うことがあります。ブログ記事を書いて投稿するたびに、気分が「フワッ」と浮かび上がり、記事を読まれたりコメントを頂いたりするたびに、フワッ、フワッ、フワワッ、と、気持ちがさらに上へ上へと浮上していくわけです。で、だんだん反応が落ち着いていくに従って、高度が徐々に下がっていく。
地面に墜落する前に、また記事を書いて投稿し、高度を保つ。そんな習慣がすっかり身についてしまったのですが、フワフワ浮きながら、いったいどこへ向かおうとしてるのか。自分でもよく分かりません。
"自分で自分のブログがよくわからなくなったなぁ" 私もよく分かりません。どこに着地しようとしてるのかも。今が理想なのかそうじゃないのかもよく分かりません。 / “あいまのざっき【またしても「不調」をネタにする/ブログの「幸せ」について本気出して考えてみた/キ…” https://t.co/TXDdC7PlZA
— ほし氏 (@zRzLiB057B5XhlQ) 2021年11月13日
このまえ、タコスカ (id:kefugahi)さんのブログ記事の中で、「1000記事更新を越えてから、自分で自分のブログが分からなくなった」といったことを書かれていたのですが、私は、「1000記事書いてもそうなるのか~」と、愕然とした感覚になりました。現時点で、当ブログは460記事ぐらい投稿していますが、仮に年間100記事投稿を続けるとして、1000記事まであと5年ちょっとくらいかかる計算です。
そうして年月をかけて記事を書いたとしても、自分のブログの目的が明確になっていくどころか、ますます混沌として、扱いをどうしたらいいか分からなくのかもしれない。と思うと、このままフワフワしてていいのだろうかと、ちょっぴり心配になるのです。
「それはそもそも、最初からブログに明確な目的を定めずに始めたのが悪い」と言われれば、「そ、そうだね」と狼狽するしかないのですが、かえって目的を定めないからこそ、ここまで書けたのかもしれません。明確な成果を定めて、そこに到達し、着地できたとしたら、その時点である程度なにかが終わってしまうような印象があり、当ブログのテーマというか在り方としては、だいぶ違うなと思っています。
ただ、こうも思います。そもそも大部分のブログは、目的以前に継続性を維持できず、着水して沈む場合がほとんどでしょう。実感的に、ブログに関してはほんとうに途絶率が高く、死屍累々です。フワフワしながら真下を見下ろせば、無数の死体がプカプカ浮いているようなもの。それを見て、「し、死にたくねぇ」と思い、記事を書いて投入し、都度、浮力を得て生き延びているような。言い過ぎかもしれないですが、目的のないブログの在り方とはそれに近いのではないかと感じます。
その「浮力」を維持するための技術というか、文章能力は鍛えられたと自分でも思います。一記事に費やす文章量や、ネタの選択、話の起承転結の流れ、記事の投稿ペースなどの調節はずいぶん器用になったものだと正直自分でも思いますが、同時に、それは一種の折衷感覚であり、「間に合わせ」的なものであると思います。結局は、その中途半端な技術があることによって、別な技術の習得を得られない面があるのかもしれません。
うん。休憩を挟んで、冷凍庫で冷やしたたけのこの里を食べながら、ここまで書いた文章を読み直してみましたが、なんか妙にフワフワした内容なんで、自分で自分が心配になってきましたよ笑 もちろん、ブログを投稿した自己満足と、読者の反応に満足するという大前提の価値を、有難くも私は得られているので幸せ者です。ただ、いつまでもこうして安住してはいけないと、うっすらぼんやり考えております……。
なんかいかにも宣伝してるみたいで微妙な感じですが、noteに投稿してるのは、ブログ的になった文章に変化を起こすのが目的でした。が、こっちはこっちで文章の型が出来つつあります(*_*;