大船渡市で起きた森林火災をずっと注視していました。数年前、ギークハウス岩手三陸大船渡に遊びに行ったこともあり、土地勘があったからです。
とりあえず、火災現場から大船渡のギークハウスまではだいぶ距離があることがわかり、そこは安心しましたが、時間が経つにつれて消失範囲が拡大し、物的・人的被害もありました。発生から十二日目の三月十日に、延焼の恐れがなくなり避難解除。奇しくも日本大震災から十四年目となる前日に収まる形となったわけです。翌日、SNSのタイムラインは、被災地への追悼と、今回の山火事で自宅や職場が消失した被害者への慰めを同列に扱うコメントに溢れました。それは地上波のニュース番組でも同様でした。
実は3・11に間に合わせる予定で、私も関連する記事を書いていたのですが、消して、これを書いています。なんというのか、現象に間に合わせることへの浅ましさを感じたからです。SNS上で個人的に知名度があったり、テレビ番組のコメンテーターなどになると、世の中で発生した出来事に対し、当人が言葉での表現を間に合わせることで信頼を得ます。率先して言葉で応えることが、業界での信用となるからですよね。
つまり、どんなに被災者・被災地域に言葉を尽くそうと、自分を売り込むためのセールストークとして利用されるし、利用しているのです。言葉で自分を建てている。一方、当の被災者は言葉どころではなく、焼け尽くした自宅や職場の前で佇むしかないのです。相変わらずですが、ここがあまりにも隔絶している。
六年前に訪れた碁石海岸の画像。綺麗なところでした。またそのうち行きます。
私自身も東日本大震災の被災当事者なので、その立場として感じることとして、被災者の方が「言葉を待つこと」ができるように思います。被災直後の状況とは、それをいま言葉で表現したらどうなるというものではないし、また、単純にやることが多く、粛々と解決していかねばならない。言葉はそのあと湧いてきます。一方で、安全圏にいる人間の方が、状況に焦って言葉を生み出し、表現しようとしがちです。
それは災害と直接的な関係性がないからこそ、自分の見解や感情を優先した言葉が使えるという、奔放さが生じるからです。もちろん、これは私自身も反省しなければならないのです。なんせ、ブログで散々、自分とは直接関係がない災害とか事件について「お気持ち」を述べてきましたからね。タイムリーに言葉を紡いで、人の関心を寄せ付けるようなことはすでにしている。とはいえ、単なる個人のブログですら、それは浅ましい行為だからダメなんだ、なんてことは思いません。
ただ、災害や事件などが起きて、それに対してなるべく早く言葉にして表現しなければ、という空気に圧力を感じる人がいるのなら、解放されるべきなのです。災害に見解を示すことは、共同参加の義務付けられたイベントではありません。言葉は自分のタイミングで生まれる。私も優柔不断ですけれど、意識したいものです。
はい。募金しましょう。