ここんところ、すっかり日が短くなってしまいました。朝、まだまだ太陽が昇りきらない時間に出社し、一日働いて、会社を出るころにはすでに薄暗くなっています。このように太陽に祝福されていない生活は、人としてあるべきことだろうかと考えることもある。ほんの数か月前まで、「いつまで太陽ギラついてんねん。暑くてたまらんのじゃ。ウゼ~。はよ沈め」とか思ってたはずなのに。
日に日に太陽光を感受できる時間が短くなってきてるので、意識的に日向ぼっこをするよう心がけています。休みの日はともかく、平日に日光に当たるタイミングとしては会社の昼休みが最適というか、まずその時間しかありません。なので、積極的に外に出て、そのへんのベンチを占領。あたりを睨め回しながら日の光を全身に浴び、ひとり恍惚の境地です。
冬が来る前に充分ひなたぼっこしておけ。これは命令だぞ。 pic.twitter.com/0NydmsByJZ
— ほし氏 (@zRzLiB057B5XhlQ) 2021年10月27日
平日の昼間はそんな感じで過ごしてますが、もうちょっとどうにかしたいと思ってるのが、帰宅後の夜中の時間。「秋の夜長」と昔から言いますけど、この言葉には、夜の時間をいかにして過ごすかという、生活上の風情が色濃く匂う言葉でもあります。長引く夜を過ごすにふさわしい所作とはなにか。古風ですが、ぼんやりした灯りの下で本を読むとか。月を眺めつつ煙草をふかすとか。庭先の虫の音色に耳を傾けるとか。まあ、そのようにして静かな時間を享受していたのでしょう。かつては。
ところが今や、私もみんなも、Youtube、Twitter、TikTok、はてなブログ、note、wear、インスタ等を循環。寝る直前まで騒がしくギラギラしてるわけです。ホワイジャパニーズピーポーですよ。「秋の夜長」なんてオンライン上には存在せず、ひたすらそれぞれの就床のリミットまでコンテンツ漁りに没頭するのです。いや、就床してからも、オンラインの毒気が抜けない事もありますね。私も布団に潜りながら、「なんでこんな時間にはてなスター押してんだ俺」って思うこと多々ありです。
ついつい、夜中の時間から「余韻」を追い出してしまうのですね。じっくりと静かに、なにかに取り組んだりとか。そうじゃなくても、ゆったり過ごすとか。そういう時間の方が有意義だろうし、満足できることが分かっているのに。どういうわけか夜中に色々と詰め込んでしまう。なにかを取り返すようにです。なにに餓えてるのかは分かりませんが。
私もときどき我に返ったようになり、「こんな過ごし方は切ないな」と反省。ある時間までにはネットを断ち、それからは紙の本を読むとか、ストレッチをするとか、アロマキャンドルを灯してぼんやりするとか、今までいろいろやってきたのです。ところが、ふと気を許すとまたスマホをいじり、Youtubeで1980年代のヘビーメタルバンドのミュージックビデオを眺めて、「ぎゃはははは!!」などと笑い転げているわけですから、精進が足りません。
気を許せなかった昼間の時間から、自分を開放するのが夜の時間だとすれば、そうやってネットに浸かっていたいというのも本心なのかもしれない。でも、なにかこう、時間を雑に扱った報いはあるように感じる。それがネット三昧のあとに感じる罪悪感の根源だとすれば、自分にとって罪悪感を感じない「許された習慣」とでもいうのか、そういったものを見つけて取り込んでいくことで、「時間を大切にしている」という実感と自信を両立させる。それこそが「余韻」の正体だとも思うのです。
ということで、秋らしい余韻を感じられるような過ごし方を模索しております。楽器の演奏はいいんじゃないかと、小学生の頃に使っていたリコーダーを押し入れから取り出してきれいに洗い、夜中に吹き鳴らすなどして余韻に浸っていると、朝、家族から、「最近、近所で夜中なのに笛吹いてる奴がいて怖い」という報告がありました。うーん、リコーダーは駄目か、それではウクレレにしようかなどと、余韻からどんどん遠ざかっている有様でございます。
↑このゲーム面白そう。買ったらたぶん秋の夜長終わるわ。