ここんところ、我が家は野菜に溢れており、白菜、人参、玉ねぎ、ジャガイモ、キャベツ、長ネギ、ゴボウ、セリ、春菊などなど、野菜天国になっています。なんでそうなってるかというと、農家の知り合いからおすそ分けしてもらったのです。ありがたや~。あとは田舎道を走っていると道端に無料販売所があったりして、お、これはと思ったものを買ってきたりもするので、それですっかり天国化しました。
とりあえず白菜、人参、ジャガイモ、玉ねぎ、キャベツ。このあたりがキープされていると心強いものがありますね。私も人に対して強気に出れたりもします。逆にこれらが枯渇し、モヤシとかしかなくなると心が弱くなって、不利な条件であっても嫌と言えずに首を縦に振ってしまう、なんて事もあるように思えます。家に潤沢な野菜類が保管されていること。これこそ人の覇気の源でありましょう。
まあそれはどうでもいいとして、このまえTwitterでスペースを開いたとき、モヤシと人参とピーマンなんかが一緒にパックされてて、簡単に野菜炒めとかができるやつの話になりました。ミックス野菜ですか。昔はよくお世話になってました。が、「あれってぜんぜん美味しくないよね」ってことで意見が一致しました笑。私も今はもう買わないし、話し相手の人も、普通に野菜を自分で切って焼いた方が美味いと言ってました。
コンビニ価格に慣れてると、ミックス野菜は安いと感じるけど、スーパーで買い物するようになったら高く感じるようになった、みたいなことも話したような。なんというか、野菜に関心を持つことは、窓が開いて外から新鮮な風が入ってくるようなものかもしれない。ぼんやりと野菜ジュースを飲んでたのが、なにかがきっかけで個々の野菜がちゃんと可視化できるようになる。野菜に目覚めてこの世に目覚める、みたいな笑。
自分で野菜を選んで買ったり、調理する習慣が身についてから、野菜を最短の手間で摂ろうとしてるときは、なにかしら余裕が無いからじゃないかと解釈するようになりました。余裕があるとき、野菜はひとつひとつがしっかりとした存在感を示し、それを手に取って調理する手応えはもちろん、食べ応えにも満足することができる。要は、野菜を通じた体験を受け入れることが出来るわけですね。
でも、どこか余裕がなくなると、人参もトマトもホウレン草もひっくるめて、ぼんやりと溶け合った「抽象的な野菜」を摂る方向へ逃げがちになる。私もたまには、野菜ジュースをジュージュー吸って終わり、みたいな摂り方になりがちです。それは決して悪いことじゃないのだろうけど、野菜に対する意識としては最低限レベルといえるし、生活態度としてはちょっと退行しているかもしれないな、と認識します。
「んな、野菜ぐらいで深刻ぶってんじゃねえよ」とか言われそうだ。でも、人が余裕を失うと、分かりやすく犠牲になるものってありますよね。部屋がめっちゃ汚くなったり、髪がぼさぼさになったり、服が更新されなかったり。そういう一群の中でも、野菜を摂るか摂らないっていうのは、けっこう分かりやすい指標じゃないでしょうか。よくよく思い出したら、まともに自分が摂ってる野菜が、週一で食べてるラーメン二郎のキャベツとモヤシしかないなんてことないですか笑。
でも、それはそれでいいんです。野菜を摂ることひとつにしても、人それぞれの認識は異なる。大事なのは経験則から、「自分の野菜の摂り方ってマズいんじゃないか」と省察を重ねて、自分なりに理想的な野菜の摂取を習慣に落とし込めるかどうかじゃないかと。地球に住んでいる以上、野菜からは逃れられませんからね。ブロッコリーはどこまでも追いかけてくる。なら諦めてブロッコリーと向き合うほかはないのです。ブロッコリーを焼くか煮るか揚げるか、あなたが決めるしかない。もう、何を書いてるか自分でもさっぱり分かりません🥦
この曲は難解すぎる。私には早すぎました。