口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

現場にBGMは無い。

日は311日。東日本大震災から9年も経ったわけですが、震災当日の記憶はまだはっきりしています。当時、私は仙台市に住んでいて、自宅のアパートで被災しました。ベランダで地震の揺れをやり過ごしたんですが、棚や押し入れの中の物がすべて散乱し、ベッドが床の上を自由に動き回るのを眺めていました。

 

三日ほど避難所で過ごし、四日目に地元へ戻りました。そちらはそちらで原発事故の関係で大変だったのですが、住居のダメージは皆無でしたし、ホッとすることができました。それから毎年311日が来るたびに、震災に関するドキュメンタリー番組や再現ドラマ等をテレビで見たりしましたが、それらの映像作品には、常に違和感を持っていました。

 

映像では、悲劇的な場面になると、悲劇的なBGMが流れます。同じように、どこか希望が持てるような場面になれば、希望的なBGMが流れるわけです。これはニュース番組とか、アニメでもおなじみですが、場面とBGMをリンクさせる、創作物としての効果的な手法が取り入れられているわけです。

 

ここに相当な違和感を感じます。私の実体験として、被災していた最中、勝手にBGMなど流れませんでした。まあ、当時はテレビから「ポポポポーン」と、頭が狂いそうなほど流れていたのもありましたが、音楽と被災の体験は私の中で結び付いていません。だから、震災をモデルにした映像には、どれも多少なり、深刻な嘘が混ざっていると感じます。

 

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大事なことだと思うのですが、現場にBGMなど無いのですよね。被災して悲劇に見舞われた人々は、悲劇的なBGMと共にあったわけではない。また、被災地での希望とは、BGMとは無縁に生まれたわけです。もちろん、自分の好きな音楽を聞いたら元気が出たとか、個人的な体験はあるでしょう。でも少なくとも再現ドラマのように、明確にある場面で割り振られるような、見え透いた代物ではない。

 

しかし、震災を実体験していない人は、実態とはいいがたい「創作物」を介して理解するほかない。震災だけでなく、自分の体験していない出来事とは、人の手の入った創作物を介して体験する場合が多い。すると、創作物特有の味付けがどうしても含まれ、作り手の筋書きに沿った「体験」しかできず、「体感」とは、言い難いと思うのです。

 

話は変わりますが、去年、陸前高田市に行き、「奇跡の一本杉」を見てきました。正直いうと、積極的に見たいというわけでもなく、せっかく来たんだから見るか、ぐらいの気持ちでした。しかし、それを目の前にすると、「これは本当に見る価値があるものだ」と実感しました。そこには感受性の誘導がなく、一本杉がただ立っていました。それを眺める私の背後では、復興工事の重低音がひたすら鳴り響いており、それらは嘘ではなく、現実そのものでした。

 

「奇跡の一本松」は、かなり人の手が入り、想いの籠められた「展示物」でもあります。しかし、それを隔たりなく自分の目で通したときの感想は、染み入るものでした。やはり現場に立たなければ湧くことのない感覚はあると思います。特に音を聞くことは大切ですね。風の音や、蝉しぐれや、工事の打突音。現地の人が長らく聞いていた「本当の音」を、また自分も耳で聞くこと。これがまず、理解の手始めになるように思います。