私は年が明けると精神がキリッとして、なにかせずにいられないような感じになり、意味もなく早朝の台所で長ネギを大量に切るといった奇行を行うものですが、今年はなんかダメだ。使い古した輪ゴムのように心がたわんでしまい、布団に潜って仏のように穏やかな表情でぬくぬくしていました。ブログを書く気力も、皆様のブログを読む気力も湧かず。ようやく三箇日の最終日に気力がポコッと湧いて、この文章を書いております。
まぁ、実際は初詣に行ったり温泉街をブラブラするなどもしてましたが、どうにも文章を書く集中力が起きず、こうして書き始める前にもダラダラとユーチューブの動画を観るなどしてしまいます。で、どんな動画を観ていたかというと、
こんな動画。2000年代の日本の映像を組み合わせて実に「エモい」感じに編集されており、コメント欄は英文ばかりで日本語が皆無。それでもみんなで「エモいよ~」と盛り上がってるのが分かる。しかし、自分の国ではない他の国へ、これほどまでノスタルジーを感じられる感覚って複雑な気がします。当の日本人が他の国をそう感じられるかといったら、なかなかそうならないでしょう。
あと個人的には2000年代がすでに「エモい」、つまりレトロに足を突っ込んでるって感覚が衝撃的です。ちょうど私が中学生から大学生ぐらいの時期で、そりゃあ、懐かしい思い出がいっぱいある。それでも記憶が割としっかり残っている時代を、すでに「エモい」というフィルターを通して眺めている人がいるのは、時代を勝手に供養でもされてる気分でちょっとだけ複雑です。
とか言いつつも、ガラケーを使ってたり、女子高生の眉毛がやたら細かったりするとエモいと感じるのも確か。もう二度と戻れない光景の横溢に心が熱くなる自分がいる。でも、結局「エモい」ってなんなのだろう。なんでそんなに得も言われぬような気分になるのだろう。などと考えているうちに、それはおそらく、その時代の人たちが「自分たちが古びていく」などと考えず、正直に生きているからだと思ったのですね。
ガラケーを使ってたり、細眉だったり、ガングロメイクだったり。その時には最新で「イケてる」と疑いもせず、それ以外に選択肢はあり得ないと考えていた人たちの輝きが映像に保存されている。その人たちは数十年後の今、我々に見られているなんてことも想定していないのです。ただただ、時代と過ごすことに一生懸命な人たち。逆にいえば盲目で、先の見えていない無知な人たちでもあり、かつては自分もその中のひとりであった事実。
そのあたりが鑑賞者の中でぐるぐるとミックスされ、かつて自分のかいた恥がいい感じのスパイスにもなり、二度と体感できない過ぎた時代を愛おしむ気分になる。それがきっと「エモい」に繋がるのだなぁなんて思ったのですが、そんなやって昔の映像をエモいエモいと言っている今こうしている時間も、二十年も経てば「懐かしい」と、誰かにため息をつかせる一部となるのかもしれない。
でもここで、「よっしゃ。将来、誰かにエモいと感じてもらえるような時間を過ごすぞ~」とか考え始めるのはおかしいんでしょうね。懐かしさを後世で評価されるために、我々は日々を過ごしているのではなく、その時々で自分のやりたいことをやっているからこそ、振り返ったときに時代を超えた人間の普遍性が輝くわけです。それが集積すると、自分だけでなく、多くの人たちの共感覚にも通ずるイメージとして長く生き続けることになる。
だから、それぞれが自由気ままに過ごしている、まさに今ここ。私もエモいし、あなたもまたエモいのです。まぁ、その「エモい」だって流石にあと二年くらいで死語になって土に埋められるでしょうけど笑。そんなこんなで、皆様、今年もよろしくお願い致します🐇
最近聴いてたエモい曲