口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

20年前の7月15日に何をしていたか。

 

てなが創立20周年だそうです。

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すごいことですよ。お酒が十分飲める人間が育つほどの年月ですからね。そうだろ増田ぁ。聞いてんのか、おい(暴言)。正確には20年前の7月15日に創立したようです。20年前は言わずもがな2001年ですが、自分がいま生きている西暦2021年のヤバさを改めて感じます(汗)。当時、高校1年生の自分が2021年に生きる自分の事を、ちらりとでも考えたりしただろうか。たぶんそんなことはなかったでしょう。そこはかとなくエロイことばかり考えていたに違いない。今もってそうですが。


世間はようやく梅雨が明けました。毎日が燦燦照りです。女子高生たちが陽炎の中で白く揺らいでいます。20年前の7月15日に、同じように白熱した風景の中を、私は学校へ通っていたはずです。ずいぶんと記憶も薄れてきましたが、なんとなく思い出せることもあるので追憶していきましょうか。もしかしたら、だいぶ偽の記憶も混ざってるかも知れませんが。


私の母校の夏の制服は、半袖シャツにダボダボのチェック柄のスラックスに腐ったローファーでした。ローファーが腐るのは革靴の手入れスキルなんて習得してないからです。ひたすら汗と大気の水分を吸収したローファーは腐って1.2倍ほどに膨れ上がり異臭を漂わせていましたが、履き心地はそう悪くなかった。ローファーは足の甲の所が平べったくなってますが、そこに虫の死骸を乗せたまましばらく登校していた記憶があります。コガネムシかなんかだと思いますが、その程度の死骸を振り払う気力もない学生だったという事です。


有難いことに友人には恵まれていました。当時は毎朝、地元で非常に評判の悪い接骨院の前で待ち合わせをしていた友人がいました。不器用な人が握ったおにぎりみたいな頭の形をした友人のYです。お互いに自転車通学ですが、Yの自転車は3万円くらいのそこそこいいやつに乗ってました。Yの口癖は「30歳までに死ぬ」でしたが今も普通に生きてるっぽいです。私の自転車は1万円ぽっきりのやつでしたが3年間何とか自転車として形を保つことに成功しました。


まるで熟年夫婦のようにYとは付き添いましたが、何を話したかほとんど覚えていません。大したことは特に話さなかったと思います。雲が流れている。おい見ろ。お、そうだなぁ程度の会話でしょう。登校のストレスからでしょうか、Yが道端で自転車を停めると、地面に音もなく嘔吐するのを静かに眺めていた記憶があります。また登校途中に、元々女子高だったのが2001年から男女共学になった高校があり、校舎もそれに合わせ改装されピカピカに光り輝いていました。その前を通る時、なんとなく敗北感がいつも湧いてきました。私は内心で般若心経を唱えつつ、下を向いていつも通り過ぎていました。


コンクリートの汚染が甚だしい母校の校舎がそれから間もなく見えてきます。収監というフレーズが毎日思い浮かんだものです。駐輪場に自転車を置くときに、いつも視界の端の方で校舎の壁際にうずくまっている生徒がいたような覚えがあるのですが、何だったのかよく分かりません。普通科はともかく、工学部は喧嘩が絶えない場所でした。校門を潜り玄関を潜るとそこは下駄箱です。特質すべき所は時に無いと思われます。我々普通科の生徒は廊下の突き当たりを左に向かいます。


するとその先で朝練を終えた相撲部の部員が佇んでおり、どういうわけか廊下で褌を外している光景が目に焼き付いています。母校は相撲部がある珍しい学校でした。後々、現役を引退した貴乃花も足繁く実地指導に訪れていたようですが、残念ながらタイミングが悪くて貴乃花親方を拝むことは敵わなかった。なんで廊下で褌なんて外してたのか分かりません。その場所は体育館との通用路みたいなとこではあります。だから何だって話ですが。もうちょい人目に付かないとこで外せばいいじゃんと当時から現在に至るまで疑問です。なんだか自分の死に際にも思い出しそうな気がする。

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まあ一応、配慮なんでしょうか。廊下を通りがかる人に前が見えないよう、体の前面を壁に向けて褌を外していました。ひとりで外すのは難しいらしく、両隣で部員が介助しながらです。背中から臀部にかけての古ぼけた苔のような体毛の様子を今でもよく覚えています。その後、宮城県石巻沖に浮かぶ孤島、金華山を訪れた際、その神域に置かれた苔むした巌の様子が、相撲部の背中から臀部にかけての印象と同じだったのが衝撃的でした。巌の表面に手を滑らせてみると、かさついた苔と荒々しい巌の感触が心地よかった。


教室までの廊下の隅には色々なものが吹き溜まっていました。葉っぱ。ハチの死骸。生米。紙コップ。キーホルダー。消しゴムのカス。砂なんかです。高確率で10円程度の硬貨も落ちており、それを丁寧に拾う事で、自動販売機で飲み物を買うお金には不自由しませんでした。教室に入ると、私たちは勉強しました。3年間勉強しました。午後4時。朝と同じようにYが現れ、また自転車を押して帰路に就きます。ある種の永遠の型の中に生きているのではないかと当時も微かに考えていたかもしれない。そして今だに会社への出勤退勤を繰り返す永遠の型を踏襲しながら生きるすべしか知らない。


途中古ぼけた店に寄って汚言症のある店主から飲み物を買いました。120円ですくそっ、ありがとうございますちくしょっ。カウンターの側にいつも白髪のお婆さんがいました。店主のお母さんだと思いますが、いつも涙ぐんだ目で椅子に座って佇んでいました。店の外で飲みものを飲みながら、Yが急に「どこかに女子高生の核みたいなのがあって、その核を壊すとすべての女子高生が消えるみたいなの面白いでしょ」みたいな話をしたのをなんとなく覚えていますが、それに自分がどう返答したかは忘れました。脂汗まみれになって私たちは自転車に跨り、たまには降りて押して、また例の接骨院の前で別れ、独りになれば一段と蝉の鳴き声に押しつぶされて汗が噴き出してきました。家に着くまでに自分の体は残らないんじゃないかと何度も思ったはずです。


家に付き、シャワーを浴びます。親はまだ帰っていません。午後の6時まで寝ます。それから軽くお茶漬けみたいなのを食べて、白い袴を着用。模造刀の入ったケースを肩に担ぎます。午後6時45分に母親の車が戻ってくると同時に祖父の車が家の前にとまります。母が祖父に頭を下げ、「よろしく~」と言って祖父の車に乗りこんで5分後には公民館脇の体育館に到着。祖父もまた白い袴姿で、真剣が入ったケースを担いでいました。体育館の中に入ると、道場を名乗りながらその道場がない道場主と、年老いた弟子たちがいて、「いやあ、ほしさん。ほし君。今日はなんだろう。一段と暑いわね」などと軽い話をします。


そうして午後7時から9時まで私たちは刀を振りました。ちょうど10本の刀が虚空を切る音が響き合います。開け放たれた窓から世間の人が神妙な顔でよく覗き込んでました。謎の武装集団か何かと思われてたら愉快だなぁと内心思っていたはずです。刀で人を斬ったあとで血糊を拭うために、刀を軽くひねって血を飛ばし、その後で残心という一種の無明の境地に至るまでの動作が、いまいち滑らかじゃないという理由で私はけっこう師範から絞られていた覚えがあります。床に血の代わりのように、自分の汗がしたたり落ちた記憶もまだまだ鮮明です。


冷房も入れずに窓を開けっぱなしなので、セミがよく中に入ってきました。たまに「斬ってみる?」と真剣を渡されたこともありましたが、「やっぱりかわいそうです」と言ってその度に刀を返しました。皆で座禅を組んで息を整えてから帰路に付き、車内で「そのうち俺の刀やるから。イチから買うと高いから」と祖父が言っていた通り、真剣は私のものになりましたが押し入れの奥でずっと眠っています。そして私も眠り、朝になれば自転車に跨り、接骨院があってYがいて、Yが吐いて敗北感を感じ、相撲部の臀部を眺めて勉強し、自転車に跨り家に帰り、刀を振って頭の中で人を斬る。そんな無限がありました。


以上。ここまで書いてみて、正直いって感想は特に無いっすね(汗)。ま、昔の自分はよく生きることに飽きなかったなあって思います。あと、もちろん当時はブログを書こうなんてのは一瞬たりとも思ってなかったはずです。それからインターネットの存在も、今ほど自分にとって重要でなかったのは確かです。


で、なんと、なんとぉ。ここまで書いてようやく気づきました。申し訳ありませんがここまでの内容は偽の記憶でした。そういや2001年ってまだ私、中学3年生で高校生じゃなかったです。一年フライングしちゃった(汗)。まあ中学生編もそのうち書きます。うおー。そしてなんと、当ブログ始まって以来最長の記事です。3500文字を突破しました。勝手に書き散らかした文章をここまで読んでくださった皆さん。お疲れさまでした。

 

 はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」