口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

今が晩年かもしれないという思考。

 

に始まったことじゃないですが、有名な人が亡くなると心細いです。最近も音楽関連だと、ジェフ・ベックYMO高橋幸宏トム・ヴァーレインバート・バカラックザ・バーズのデヴィッド・クロスビー、鮎川誠、Hi-STANDARD恒岡章ムーンライダーズのメンバー岡田徹。そうそうたる人たちがもうこの世にいないのが信じられない。


文学関連では加賀乙彦大江健三郎も亡くなり、他にも松本零士扇千景笑福亭笑瓶陳健一に、あの大川隆法までもいないのがまた衝撃的。もう誰が生き残ってるのかよくわかんなくなってきたぞ。あと、高倉健とか田中邦衛とか、とっくに亡くなってるけど私の脳内では死亡判定が出てない人もいる。そういうのはレジェンド、不滅の人です。


で、誰か亡くなるたびに、「俺もいつ死ぬか分からんのや。もっとしっかりせなあかん。よっしゃ、今この瞬間から生まれ変わる」などと急に部屋の掃除なんて始めたりする私の軽薄さは諦めていただくことにして、人間、いつ死ぬかもわからない、なんだったら今日死ぬかもしれないという意識に目覚めるのは大切でしょうね。


ただ、そのいつか来る死の予感を頭の中にデカデカと設置していると邪魔で仕方ないわけで、どこか目立たないところに置いて、ときどき目に付くぐらいにしておくといいのかもしれない。仮に自分の脳内を和室とするなら、ぱっと見て不吉なものはないのだけど、床の間に飾ってある掛け軸に「酔生夢死」などと書かれていたりとかね笑。まあ、その程度の共存関係なら理想でしょうか。

 
名前のわりに春が見頃のクリスマスローズ花言葉は「追憶」

 

それと、誰か有名な人が亡くなるたびに、「この人は自分の晩年に納得できたのだろうか」なんてつい考えるんですが、長年にわたり成果を認められてきた人は、晩年を迎えることとなっても、納得できる諦念の落とし所を見つけやすいのではと勝手に想像します。しかし、若い人が亡くなったりすると、まだまだ可能性があるになと思うし、当人もまたそう考えていたとすれば居た堪れないものがありますよね。


ただ、亡くなったことがそのように広く周知されること自体、才能のある人であったことの裏付けであり、特別な弔いでもあるわけです。でも、そうでもない我々一般の人間が、急に自分の晩年を意識せざるを得なくなったとき、何をもって人生を納得させられるかどうかって、かなり難解でしょう。「この世に何を遺せたか」ぐらい考えるかもしれませんが、たとえば急にいま私が死んでしまった場合、それこそ没になったブログ記事の下書きや、微妙な額の貯金だとか、中途半端なものばかり遺すことになってしまう。


まあ、自分が死んでも子供がいるとか、それなりの資産形成をしたとかなら、急に身罷ったとしても納得感があるかもしれませんが、私みたいにガラクタみたいなのしか残らない場合、かなり厳しい立場に陥ると予測できます。だからといって、死んだ時に恥ずかしくないよう、なにかしら立派な成果を得ようと考えて生きるのは、死者が望む人生であり、呪われているとしか思えないのですよ。


結局、人間は生きてるうちに好き勝手にいろんなことをして、それで大量のガラクタも残るんだけど、その中で偶然、ちょっと立派なものも残れば御の字じゃないのかと。それは必ずしもお金や地位である必要はなく、ある種の評判であったり、誰にも知られず密かに取り組んだものでもいいんではないでしょうか。ただ、どこかの時点で、責任を持ってガラクタと成果をより分け、捨てるものは捨てて後腐れのないようにしなければならない。その時点までは、なんとか生きさせてほしいものですが。

 

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一生に一度くらいはガチの本気出して「質量のある残像」を発生させるのが本望です。