口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

さらけ出すか、抑えるか。

ったいなんの話かというと、表現性のことです。ブログ、ツイッター、小説、漫画、ドラマ、その他いろいろ、素人やプロに関係なく全ての表現文化に言えることですが、表現というのは露骨にさらけ出すか、抑制して洗練された表現に慎むか、この二択になると思ったのです。もちろん、この二つの表現性の合間には、無数の調整段階があるわけで、そのさじ加減が、豊満な表現を生み出すのでしょう。

 

なんで急にそんなことを考えたのかというと、最近、noteの方も初めて、そちらの記事も読むようになったからだと思います。はてなブログも表現の宝庫ですが、noteはもしかしたら、はてブに勝るぐらい、はっきり言って変わった人がたくさんおり、表現性も多いわけです。

 

noteでは本名で活動されている人が多いです。中には恋人との痴話喧嘩やら、親族との確執を生々しく綴っている方もいて、「これ、本名晒して書いていいものなのか」と、かなり当惑するような内容であったりとか。表現のリミッターを外して妄執そのものを書いている恐ろしげな人もいます。

 

それとは逆に、自分の表現形態がある程度定まっているならば、漫画やイラスト、詩、俳句といった形で、それぞれが調整した表現でもって、コンスタントに作品を投稿しているのも多いです。こういった人たちの投稿を眺めるのは安心感がある一方、そこまで強烈な表現は望めないというある種の諦めもあります。

 

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さらけ出すにしても、抑制するにしても、「どちらが表現として上等なのか」なんて評価はナンセンスでしょう。要は表現方法がその人に合っているかが大事だと思います。そして、できれば自分の選択した表現が認められ、読者を獲得する信用を得る事を、多かれ少なかれ誰もが望んでいるのでしょう。

 

これが難しい所なんですよね。個人個人において、「こんなふうに表現したい」という欲求と、「いまのところはこんな感じでしか表現できない」という限界の合間で、表現性を探っていく。そして、自分で納得した形でネット上に投稿したとして、それが読者とかPV数とか「いいね」の数で、望み通りの評価を伴ったものにならないことがある。というか、その場合の方が多いでしょう。

 

そうすると、不満から表現法を変形させる人も現れるわけです。自身のトラウマ的な体験を、多少無理をして晒したりとか。これは確かに信用を獲得するある種の手ではありますが、仮にそれでファンが付いたとしても、今後はどう継続するのかという課題が出てきます。一度、強烈な表現に引き付けられたファンは、次もそれを望むものです。その欲求が叶わないとなれば、ファンは離れていく。その時、作者はどう心構えをするべきか。これも個人によるでしょう。

 

なにを書いているか自分で分からなくなってきたので、このあたりにしておきますが、私としては、「クリティカルは狙わない」という心構えでやっていきたいと思っています。無謀な表現に飛び込むのではなく、ちゃんと自分の意志で書いているか、無理をし過ぎて混乱していないか、表現の逃げ道を自分で塞いでいないか、といったことを確認しながら、ブログもnoteも続けていきたいものです。