口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

怨念に効く風景。

ときおり、怨念のようなものが湧く。脳裏に過去の人間が出てきて、過ぎ去った光景がフラッシュバックするからだ。正確には、過去の出来事ではないかもしれない。私の過去にある未解決の引け目や、惰性で「なかったことにした」人間関係とが、記憶の中で再構築された、「新鮮なイメージ」なのだろう。

 

脳は、たまにこういうことをする。私に何をさせたいのだろう。未解決なのがそんなに嫌なのか。未解決であることが、そんなに危険なのか。いずれ、対決する時が来るから、なにがなんでも覚えておけということなのか。怨念がそれほど、対決に有効だろうか。対決をしないという選択肢はないのか。

 

私は、来年あたり自分が何をしているのか、どこに住んでいるのかも予想ができない。沖縄あたりで、なんくるないさぁ~とか言ってるかもしれないのに(適当)。そういう、前途が展開されて清々しい気分で生活しているところに、怨念がなぜ入り込んでくるのだろう。

 

人間の細胞は7年で入れ替わるらしい。私は今32歳だから、4回入れ替わっている。35歳で5回目の入れ替わりとなる。7年という周期は、なかなか絶妙な気がする。7年あれば、人間は変わる。私も変わった。次の入れ替わりまでには、今までのように急激な変化ではないにしろ、やはり変わると思う。

 

今後、私が変わり続けたとしても、怨念は変わらないのだろうか。日々入れ替わっていく人間の細胞の中で、どうしても怨念を忘れたくない細胞が入れ替わりを拒否し、どこかで陣取っているとしたら、なかなか気概があるとも思える。また、入れ替わっていない過去の自分が、まだそこに生きているのだと考えると、どこか切ないものがある。

 

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自分が情けなくて仕方なくなったり、他人がどうしても嫌になったとき、風景を眺めるのは、薬になりうる。風景というのは本来的に、誰の敵でも味方でもない。眺めていると、どこか傾いた気持ちを中和できる。悩んだときは、高いところに登って、街を眺めるといい。あと高層マンションとか、県営のアパートなんかの並びを眺めながら、ぼーっとするのはいいものだ。

 

人が暮らす景色の良いところは、たくさんの人の存在を視界全体に感じられることだ。人の声や動きや、流れといった、個々の人間の存在感が街の景色を揺り動かし、脈動させていると実感させられる。そして自分もまた、風景を動かす無数の人間のうちのたった一人に過ぎないと実感できる。

 

そうすると、怨念を抱え込んだ自分から離れ、遥かに後方からの視点で自分を眺めることすらできる。遠くから見る自分は、怨念など抱えているようにみえない。ただ突っ立ているだけの、単なる風景の中の点の一つである。私はその程度のものだ。同じく他人もまた、その程度のものだ。これは自発的な幽体離脱のような感じなのかもしれない。

 

それからまた自分の体に戻ってみる。怨念にとらわれていた時よりも、感覚的に余裕があることがわかる。無理に、怨念と自分と照らし合わせ続ける必要はないと感じることもできる。怨念が襲ってきたら、また自分の体から離れて、遠くから眺めればいい。

 

ひとりの人間の怨念など、実はとるに足らないつまらないものだ。遠くからだと、見えもしない。感じられもしない。怨念に狂って人を殺したりなど、日常茶飯事だが、自分と怨念を同一視した結果だ。自分と怨念は違う。一緒に歩む必要はない。