とっくに30代ですが、初めて会う人に自分の年齢を伝えると、驚かれることが多いです。「若いね~」とか「大学生に見えるよ」とか言われる。自慢のつもりはありません。毎回の事なので、めんどくせぇなと思っています。
数年前まで、スーパーで酒を買おうとすると身分証の提示を求められることも多かったですし、見た目より10歳くらい若く見られているのかもしれません。最近はそんなことも無くなり、ようやく見た目には成人したのかと、ほっとしています。
見た目が若いと得をする部分もあるとは思います。私みたいに仕事をしないでふらふらしているような人間の場合、ある種のカモフラージュにもなる。それなりに清潔な服を着て、リュックでも背負っていれば、学生の身分に紛れ込めます。
去年の夏、思い付きで、東大で学生になりすましてこようかなと考え、行ってきたんです。それで、キャンパスを徘徊したり、食堂で「赤門ラーメン」なるものを食したりしました。そんなことをしていたら、東大の受験希望者らしい子供と、その父母に声をかけられ、「工学部の建物ってどちらでしょう」と尋ねられました。
「まぁ、工学部の人って、僕も含めて人見知り多いんですけど、一度心を開けば、みんな良い人ですから」とかなんとか適当なことを言いつつ、工学部の校舎まで案内しました。疑いをもたれることもなく、学生になりすますことができて、その時は満足でした。
後から思うと、その家族は私の外見から学生だと断定して話しかけてきたわけで、そこに引っかかるものを感じたんですね。表面的な観察で、こちらの素性を判断された為に、私はなりすましができたわけです。そこにある種の危うさを感じました。
人を騙す行為というのは、こういう些細なきっかけから自信を経て、エスカレートしていくのかもしれないですね。他人は自分の表面しか見ないから、うまく装えれば何でもできるぞ、というような自信が膨らんでくるような気がする。これは人の判断を過小評価しているからこそ、そういう自信を得てしまうんだと思います。
それで結局は、騙す方も、騙される方も、判断力の不足から失敗するわけです。「若い人が歩いている。だからここの大学の学生だろうな」というような、自分たちの都合に合うような解釈ばかりするのではなく、「あなたはこちらの学生さんですか」と一言添えるだけでも、自分の判断だけにとらわれずに済むし、相手の素性に関して改めて観察もできますよね。
それと私自身は、若く見られること自体、そんなに良いことでもないと思っています。若く見えるというのは、「要素が少ない」という事でもある。「あ、若いね」と、あっさりとした判断をされている気がするのですね。もう少し年齢を経ていくと、外見上の要素も増えていく。
しわ、しみ、たるみ、白髪、薄毛。人生とともに外見上の要素が増えていく。それらは嫌われることがほとんどですけど、判断する要素が増えていけば、その分は配慮されるわけです。つまり、他人が自分に対し慎重になるという事です。これは、自分が誰かを騙したり、他人が誰かに騙されたりという、判断力の不足を補う事にもつながります。
そのうち学生になりすますなんて気軽なことはできなくなるだろうけど、その分、配慮される部分が増えて、自由になる場面も多くなるんじゃないかと。世の中には、ある程度の年齢の経ているからこそ、気軽に出入りできる場所も多いです。若いとどうも居心地が悪い場所というのがあるんですよね。浅草あたりで昼間からやってる路地裏の飲み屋とか、ああいう所は、でっぷりと太ったおっさんなら、堂々と居座れるんです。
そんなことを考えたりしているので、「年齢不詳」というものに憧れるんですね。パッと見て判断できない人物になりたい。若くもないし、年寄りでもない。どこにいても違和感がないような人物。38歳くらいだと若すぎるか。45歳ぐらいだと、若さと老いのバランスがちょうどいいかもしれません。56歳、64歳あたりになればもう、世界のどこにいても許される気がする。