口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

それでもテレビが要る理由。

(今年の三月に一度投稿したものを加筆修正しました。テレビはもういらない、オワコンとか言われ続けていますが、それでもまだ、家族間の微妙な関係をつなぐものとして、大切な役割がありそうです……)

 

★★★

 

現在、家に三台テレビがあります。私の部屋のテレビは、ほとんどゲーミングモニターとしての用途しかないです。あとは無我の境地でプリキュアとか忍たま乱太郎なんかを観るぐらい。弟の部屋のテレビも、だいたいは二次元の美少女を写すためだけに存在するようです。

 

居間にあるテレビが一番テレビらしいですね。親が家にいる時間帯は常に流れています。誰も観ていなくても、垂れ流しにされている。誰も観ていないようだから消すと、ほどなく母親か父親によって、いつのまにか電源が付けられているわけです。

 

テレビが付いているからそれを観ているということではなく、母親はテレビの前のテーブルで、家計簿をつけたり、栄養士協会から届いた分厚いパンフレットを眺めたりしている。父親はその横でスマホを眺めたり、血圧を測ったり、ときおり虚空を眺めて、「ああ~」とか「酒井法子」とか、意味もなくつぶやいたりしているのです。

 

夕食時は家族全員が居間に集まり、そのあいだテレビはずっと流れているけれど、別に特別観たいものがあるわけではありません。なるべく食事の邪魔をしない映像が流れていればいいので、NHKかなんかを映します。でも最近はNHKも民放と代わり映えしないテンションの高い番組が多いですね。余計なことをしないでほしい。NHKなんて、テンションの起伏のない人物が、テンションの起伏のない声で、ひたすら情報をただ伝えていればそれでいいのです。

 

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こないだ、夕食のブタの生姜焼きを噛みしめていると、脳が刺激されたからか、「現時点でのテレビの存在価値ってなんだろうか」なんて、小難しいことを考えてしまいました。情報プラットフォームとしての地位は、ネットに勢力を押しこまれており、現時点では、いろいろ不自由で不親切な、一方的に情報を流す代物になっている気がします。

 

でも、もしテレビ自体が将来無くなったとしても、とりあえずモニターに映像を流しておく文化は生き残るんじゃないでしょうか。でないと家族の間にある、よく分からない、気まずいような、名状しがたい妙な隙間を埋めるためのツールが無くなるからです。

 

たぶん、テレビは「囲炉裏」の代わりなんでしょう。昔は、囲炉裏の熱と、温かな光が、家族間にある隙間を埋めるベースとして機能していたのだろうと思います。囲炉裏の周りに集まれば、家族関係はそのたびに結ばれ、整えられる。そして食事を共にする。こんな風情が何世代にも渡る習俗として生き残ってきたのだけど、いつしか囲炉裏が消え、それが時代と共にラジオに変わったりして、その系譜の現代版がテレビなわけですね。

 

今後、お茶の間の気まずい雰囲気を埋める、新しいツールはどういうものになるでしょうか。想像はいろいろできるけど、最適解がよく分かりません。家の壁が全部AI制御のモニターになっていて、食事時に指示すると、雰囲気が食事に適した感じになるとか。南国のリゾートとか、森の中の映像になるとかだと、未来感がありますよね。

 

でも、周りが一流レストランの映像なのに、食卓に並んでいるのがほうれん草のおひたしとかだと、なんか微妙じゃないですか。どんなに技術が進化しても、私はあいかわらず、テンションの起伏のない人が情報をひたすら伝える映像を希望するような気がします。