口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

人の生存率はいつでも100%じゃない。

間的に有名な人が病気になると話題になりますね。癌や白血病のような重い病気となると尚更です。ニュースで「生存率は〇割」なんてデリケートな情報を流すこともある。ああいう情報は、本人の了解のうえで流しているものなのか、ちょっと気がかりです。

 

そんなニュースを観たり、ブログで闘病をしている方の記事を読んだりすると、普段は自分が想像もしないことを考える機会になります。自分が将来、癌や白血病になったらどうなるか。ましてや、手術の成功率や生存率という数値で、自分の命を測定されるのは、どんな気分なのか。そんなことが頭によぎります。

 

実際に自分の身になってみなければ本当の所は分かりませんので、あくまで想像ですが、いざ自分の命の期限や、生存確率が設定されれば、案外、気落ちというよりは、張り合いが出てくる部分もあるのではないでしょうか。

 

普段、私たちの多くは、よくわからないまま茫漠と生きていると思います。生存率なんてものは、意識の外にあり、自分の命が重いんだか軽いんだか分からないまま生活をしている。自分の命の基準が無いのです。もちろん基準をつくることはできます。というか、その基準をどこかでつくるのが、人生でしょう。

 

子供が出来て親になるとか。あとは、自分から危険なことに飛び込んでいって、死と間近に接するとか。色々な体験を通して、人は自分の命がどのくらいのものか、把握したいと考える。ただ、それらは自発的なものであり、唐突に病気になって勝手に命の基準が設定されるのとは、まるで違う感覚でしょう。

 

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たまに、著者の闘病の経験談が書かれた本を読むことがあるんですが、病気を「使命」や「試練」と捉える方が多いです。病気を、勝手にやってきた厄介な部外者とは考えず、自分の人生に組み込むに値するものとして捉えるわけです。言い方がうまくないかもしれないですが、信仰に近いものとなり、そこから得難いものが得れることを期待するのです。そこから、上で言ったような、病気に対しての不思議な張り合いが出てくるのかもしれない。

 

だけど、私も含めて、誰でもそんなことができるわけではないでしょう。急にあなたの命はあと3日なんて言われたら、すごく哀しい。だけど、少しずつ慣らすというか、自分の命なんていつどうなるか分からないんだぞという感覚を、別に崖っぷちに立たされた感じじゃなくてもいいので、普段から持っておくといいかなぁ、とは思うんです。

 

私は今パソコンの前でこのブログを書いてますが、これを投稿したとたん、血栓が脳に詰まって死ぬ確率はどれくらいだろう、とか。今日はちょっと出かける予定ですが、横断歩道を渡ってる最中に暴走した車が突っ込んでくる確率はどれくらいだろう、と考えながら道路を渡るとか。

 

これ、あんまりやると希死念慮に近くなってくるので(笑)、ほどほどに、たまに自分があっけなく死ぬ想像をしてみるのはいいかもしれません。自分の生命力が常に100%の数値を保っているわけじゃないと、意識を慣らすためです。一日のどこかで、自分の知らないうちに生存率が70%とか60%に変動しているのかもなぁ、とも考えます。

 

とりあえず、病気になってから自分の命の基準を設定される以前に、自分から設定しておき、それに対して自分の感情とか考えを、普段から観察しておくというのは、けっこう大事なことなんじゃないかと私は思っています。