Twitterが終わるんじゃないかと盛り上がってる今日このごろ。そのTwitterで調べても、みんなだいぶ正気を失っていていまいちよくわからなかったので試しにググってみると、どういうことかなんとなくわかりました。
つまり一日に閲覧できるツイートの量がなぜか勝手に決められてしまい、さらにはログイン前提の運用になるわけですか。ヘビーユーザーとか、宣伝活動の基点にしてる人とってはこれ大打撃ですよね。ていうか、まさにそういう人たちこそTwitterの大黒柱なわけでしょう。そこに向かってこの仕打ちとは。当のイーロン・マスクは「Twitterばっかやってないで外に出なさいよ」とかツイートしたそうですが、そりゃあんたの方だよと突っ込んでみたくなったり。
色々思うこともありますが、私が初めてTwitterのアカウントを作ったのが四年前。このブログの立ち上げとほぼ同じです。以降、ブログ更新の告知をしたり、美味しくお酒を飲んだりとかの日常報告をツイートしていたら、フォロー/フォロワーの関係性が出来上がってきました。それに、ある種の表現活動をしている以上、アンチ的な人に粘着される心配もしていたんですが、それもほとんどなく。そこらへんが紛争地域みたいになってるなかで、逆にウチんとこはこんな平和でいいのかってぐらい平穏にやってこれました。小さな奇跡だ。
さらに今年からTwitterのスペース機能も使ってるんで、割とガッツリとSNSをやってる感じではあるんです。でも実際は、「こんなことをする必要って本当にあるのかな〜」と、うっすら思いながら関わっている感覚があります。結局、SNSは日常の隙間に入り込んで、微妙な「手間」を増やしているわけだけど、その手間で人との繋がりや評価を得られて満更でもないから離れる気にならないのですよね。
もちろんそれだけじゃなく、情報を得たり、友人関係を維持するハブとしても便利だから手放せないんです。でもたまに、「SNSをいっさい手放したら、自分はどのように新しいことを知ったり、欲しいものを手に入れたりするんだろうか」と、試してみたくなることもある。SNSは「邂逅の効率化」でもあるので、自分の求めているものが偶然目に入る、といった機会もまた効率化されていることになります。でも、それによって本来求めているものと出会うまでの合間にあった、豊かな体験をも失っているのかもしれないですし。
なんか色々言いましたけど、程度こそあれ、死ぬまで自分はSNS的なものに触れていくんじゃないかって思います。私が80代のクソジジイになった頃のSNSなんてどうなってるか想像もつかないですがね。でも、なんだかんだ楽しみつつ、(なんでわざわざこんなことしてるんだろう……)みたいな感情を常に心の隅っこに置いておきながら、グダグダやっていくだろうと。まだTwitterからは移行しないと思います。どこまでおかしくなるか見届けたい気持ちもあるので💀
二年ぐらい前にイーロン・マスクと離婚したグライムスは私の推し笑