口から出まかせ日記【表】

GWで浪費すると母の日にツケが回る。

ブログを始めてから危機がない。

 

末が近づくと、ブログなんか書く人は、総括的なのを書きたくなる意識高めな人が多い気がする。とかいう私も書く気満々なので今から書きますけれども笑。いやはや、今年も無事に終えられそうで良かったというほかない。ロシアとウクライナイスラエルハマスはいまだドンパチやっており、野生のクマまでもが八王子付近まで顔を出すなど、今年も世の中の情勢には呆気に取られるばかりで、おちこんだりもしたけれど、私はげんきです(魔女の宅急便かよ)


そう、私は元気。世の中は激変が起きているのに、私の環境は穏やかでした。これが割と不思議でしょうがない。先月、知り合いから喪中はがきが続々と届き、あの人もこの人も死んだと知り、人間関係がどんどん濾過されていくような感覚に陥りました。今年は有名な人も相次いで亡くなりましたね。YMO高橋幸宏坂本龍一も、鮎川誠も、もんたよしのり櫻井敦司大橋純子ももういない。なんて年だい。


それでちょっと考えたのは、「個別性」ということ。私たちはそれぞれが動く島で、あっちに行ったりこっちに行ったりして、みんなで集まったりもしている。みんな、自在に動いている気になっている。だけど、流れに捕まることもある。「あれあれ〜? あの島、なんか離れていくよね〜」と、周りが気づいた時にはもう引き返せない。そこから、その人の個別性が存続できるかどうかの旅が始まる。みんなと平和に暮らしていても、ひとり、そんな流れに捕まることもある。みたいなことを今年は何度も考えましたね。

 


自分の話に戻ると、このブログを始めて以降、私には大きな危機がないのです。ブログが魔除けになっているのかと思うくらい安定している。まぁ、これは逆で、たまたまその安定した時期に書けているだけで、今後、なんらかの危機が訪れれば、私にとってブログの存在価値は変わり、きっと書く内容も変わるはず。私は今後も長らく文章を書いていく実感があるので、そのうち間違いなく、何かしら危機的な状況と、書く習慣とは邂逅することになる。


そこで、根拠はまったくないけれど、敢えてこう考えてみましょうか。「ブログを書いている限り、本当の危機はやってこない」と。そりゃあ、ブログを書いてれば危機が勝手に避けていく、なんて都合の良いことはない。ただ、人がブログを書くのは「疑う」からでもあるでしょう。例えば、不幸について文章を書くことは、そもそも不幸なのかどうか疑う習慣になる。疑うことは解体作業だから、「不幸」という具材を仕分けしていけば、「不幸の部分ってこれだけか」と、案外小さく収まることもあるかもしれない。


意味不明な不幸、全体が見えない不幸は、ただそれに圧倒されるだけだけど、よく見て、それを捌いていく。すると、不幸というよりは課題だったりする。もしくは可能性でもあったり、それか、ちょっとマツモトキヨシで軟膏でも買ってくれば解決するとか、小さな部分に分かれていく。仕分けをする力。小さくしてそれぞれに太刀打ちできるようにすること。これが文章の力であり、ブログの力でもあると信じて書き続けたい。おお、自分、めっちゃくちゃいいこと言った気がしますわ笑。もう今年は思い残すことないな♨️

 

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